朝一に木枯らし荘を出て、俺は思わず踏みだした足でもって自室にUターンしそうになった。
門から、昨日ずっと見つめていた鮮やかな紫色が見える。
風に揺れるマントみたいな布地を、昭和の不良みたいに肩に背負ってる人なんて、
俺の知りうる限りでは一人しか思い当らない。

「剣城?」

俺の声に反応してその影が身動ぎしたから、ああ、やっぱり当たりかって思った。
振り返った剣城の顔は、昨日手を話した瞬間にした悲しげな顔と同じ。

「木枯らし荘の誰かに用?」
「お前以外の知り合いなんかいねえよ」
「そっか」

いつまでも玄関に居るわけにもいかないから、俺は剣城の横を抜けて行く。
そうしたら慌てたみたいに剣城が俺のあとを追いかけてきて、横に並んだ。

「……え、もしかして俺に何か用事?」
「用事もなにも」

剣城の目は朝からずっと不安げに揺れるだけだ。

「お前、昨日」

何を言いたいのかは何となく理解した。
そして、ああ、何だかんだで兄弟なんだなあって思った。
その気になったら、優一さんと同じ程度に気回せるんじゃん。

「気にしないでいいよ。勉強になったから」
「勉強?」

怪訝な顔をする剣城の横で、俺はこくこく頷いた。

「やっぱさ、男の子と出かけるからって変に気合い入れすぎたらダメだね。
 普段と全然違う格好したら動き辛くてしょうがないし。
 もっと何か、変に浮かないくらいに可愛いめの動きやすい服探そうって思ったよ」

うん、俺だって馬鹿じゃないしさ、一晩寝て思ったんだ。
俺の事を友達程度にしか思っていない剣城の前で急にあんな格好をしても、
普段の俺がどの程度にがさつな性格をしているかよく解ってる剣城にしてみれば、
借りてきた猫が大人しくなってるようにしか見えなかったんだろう。
可愛いとか、ギャップ萌えーとかの前に、何ぶりっこしてんのコイツって思ったに違いない。
今度はもうちょっと何か、「あれコイツよく見たら可愛いんじゃねえの」とか、
そういう路線で狙ってみよう。次があればの話だけど。
そんな思いで、できる限り明るく笑い話にできるように剣城に語ってみたら、
予想外な事に剣城は困ったような顔をしてた。

「どしたの?」
「……いや、だってお前、それ……もうああいうのは、いいのか?」
「ああいうのって」

首を傾げながら剣城を見上げる。
数十センチ高いところにある顔を覗き込むのにももう慣れた。
蜂蜜色の目を困ったように揺らがせながら、俺を見つめ返すのには慣れないけれど。
昨日から剣城、こういう顔ばっかするなあ。

「昨日みたいな、服」

剣城の眼鏡にかなってないみたいだったから、もう着ないよ。
そんな風に言えるほど図々しくもない。

「俺には似合わないなって解ったから、しばらくはいいかな。
 優一さんは褒めてくれたけど、あのひと俺がこういう子だって知らないわけでしょ?
 それなら、剣城の評価の方を信じるよ」

ぴたりと剣城の足が止まる。
知らずに進んでしまったから、俺と剣城の間にはちょっとだけ隙間ができた。

「……剣城?」

振り返ってよくよく見た剣城の顔は、いつになく暗い。
暗いって言うか――青ざめてる? 何て言えばいいんだろう。
自分が今までやってきたことが全部間違いだったことに気付いてしまったとか、
取り返しのできないようなミスをしちゃってどこにも行けなくなってしまったとか、
そういう系の、自分のした何かを後悔している時の苦しそうな顔だった。

「なんかやなこと、あった?」

俺には剣城が何に怯えているかが解らないし、剣城も黙って首を振るだけだった。
それから学校に着くまでの間も、朝練中も、休み時間も、
それどころか放課後になっても剣城はずうっと同じ目で俺を見つめていた。
何が何だか分からなくて、俺はたまに首を傾げていた。



部活が終わって学校を出て、三十分。
俺はいつものように河川敷に出て、自主練に励んでいた。
だけどいつもとはちょっとだけ違う。ほんとだったら晩ご飯の時間まで練習して、
でもって秋姉のごはんを食べて寝るだけの放課後じゃない。

『京介はさ、部活終わった後すぐここにきて、三十分ぐらい話して出ていくんだ』

優一さんはそう言っていた。時間をつぶすなんてサッカーしてたら一瞬だし、
俺がこうだって解ってるから帰るのが多少遅れても秋姉は何も言わない。

「昨日の今日で行ったら、やっぱり迷惑かな……」

そう言いながらも、向かう足は止まらない。
適当に制服のスカートの埃を払って、一応髪も跳ねてないか確認して、
受付が終了する前に間に合うように病院へ向かって走り出す。
剣城が今日も行ってるなら、きっと優一さんだってあの剣城を見てるはずだ。
俺にもサッカー部のみんなにも今日の剣城がおかしいのは見てとれたけれど、
何がどうおかしいのかは皆目見当もつかなかった。
でも、優一さんならきっと解ると思う。
昨日あれだけ俺の心中を見抜いていたあのひとなら、
身内ってことを差し引いてもきっとすぐに異変に気付いているはずなんだ。
昨日は二人で乗ったり下りたりしたエレベーターを、今日は一人で乗る。
ここに来るのはこれが四回目だ。道順はもう覚えてる。
エレベーターを降りてすぐの広い個室に向かう。
室内にある人影は、ベッドに佇むあのひとだけだった。

「やあ。また来てくれたんだ」
「ごめんなさい。迷惑でしたか?」
「いいや」

微笑む優一さんに一礼してから、ドアをばたんと閉める。
俺がベッドの傍に寄る間に、優一さんは体を倒して、ベッド横の冷蔵庫を開けた。

「中にオレンジジュース入ってるから、どうぞ」
「うあ……ありがとうございます」

ぱたぱた走って、ベッドの横にしゃがみこむ。わ、ホントに入ってるし。
嬉しいような恥ずかしいような気分で、俺は冷蔵庫を閉じた。
何なんだろう。例えるとするなら親戚のおばあちゃんの家で、
何年か前に好きだって言ったお菓子をいつまでも出される時の心境に近い。

「昨日天馬くんが帰った後、買いに行ったんだよ。
 そうしたら、さっききた京介にお茶の入れ替え頼んだ隙に見られちゃってさ」

優一さんはふっと目を細めて、言う。

「それまでいつも通りだったのに、露骨に嫌そうな顔されちゃった」

あー、ブラコンですからねあいつ。貴方が盗られるかもって思って嫌がってるんですよ。
全然大丈夫なんですけどね。俺はお兄さんじゃなくて剣城目当てなんですけどね。
そこまで考えてから、俺は違和感に首を傾げる。

「……え、ちょっと待ってください。優一さんの前じゃ、剣城は普通だったんですか?」
「何をもって普通とするかによるけど」
「何をって……」

缶ジュースの蓋を開けながら、俺は唸った。
俺が判断基準にしたのは普段の剣城だ。剣城は今まであんな顔を俺に向けたりしなかった。
俺に向かってあんな縋るような目、未だかつてされたことがない。

「うん、そこが一番の問題なんだよね。
 天馬くんにとってあの京介の様子は普通じゃないのかもしれないけど、
 俺からしてみたらあいつがそうするのは凄く自然なことなんだ。
 京介ならきっとそうだろうなって、昨日君がここに来た時から思ってた」

優一さんはあの何でも見透かしているような目で、じっと俺を見る。
剣城の縋る目と同じように、俺を見定めるような目を向けるこのひとも初めて見た。

「天馬くんは、周りを見るのがちょっと苦手な子?」

それは否定できなかった。
最初の頃、それが理由でキャプテンや倉間先輩との間には物凄い深さの溝があった。
今は二人とも俺を仲間だって認めてくれて、部活中よく話かけてくれるようになったし、
ずっとずっと仲良くなれたけど……最初は散々振り回してた。

「俺は見てるつもりなんですけどね」
「うん……俺から見たら、二人とも物凄く解りやすいんだけど。
 お互いにお互いだけが解ってないから大変なことになってるよね」
「へ?」

優一さんは困ったように笑って、俺の頭をぽんぽんと撫でた。

「え、あの、優一さん」
「気にしないで。俺がこうしたかっただけだから」
「はあ」
「ねえ天馬くん」

優一さんは蜂蜜色をした目を優しく細めながら、俺の瞳をじっと見つめる。

「何かがそこにあったって、気付かなければそれはないことと同じなんだ。
 そして気付いているひとは、真実を伝えることも、覆い隠すことも、両方できる」
「……まあ、そうですね」

昨日の優一さんは、俺が言って欲しい事をするすると言ってきていた。
今日の優一さんは、俺に解らない事を次々に並べ立てていく。
俺にはどちらの優一さんが正しい優一さんなのかが解らない。
あるいはどちらも『剣城優一』なのかもしれないけれど、今の俺には判断できない。

「うん、だからね。俺は京介に何も言わないで、君にこう言おうと思うんだ」

次に出てきた言葉で今飲みこんだばかりのオレンジジュースを吹かずにいたことを、
できることなら「すごいね」って褒めてほしい。

「天馬くん。一目惚れって信じる?」

固まる俺を無視して、優一さんは俺の手を引っ張る。
引っ張られた手はそのまま優一さんの唇に近づいて――

「ずっと会いたかったんだ。叶うなら、二人っきりで」

――俺の手の甲には、ふにゅって柔らかい何かが押しつけられていた。



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