「またおいでとは言ったけど、そのまたがこの短いスパンで来るとは思わなかったなぁ」

くすくす笑う優一さんに対して、俺は今ものすごく居たたまれない気持ちになっていた。
そう、一つしかない行き先はここだった。要するに、逆走しただけ。
剣城はここを出ていくとき、「また来るから」って言った。
……「また」であって、「後で」とは言っていない。
つまり今日一日の間、絶対に剣城はこの病室に戻ってこないし、
あんまり長居はできないけれどそれにしたってただ帰るよりは時間も潰せるし、
それに……かわいい、って言って貰えたから。
剣城は何も言ってくれなかったけど、優一さんは褒めてくれたから。
なんとなく、縋るような気分でとぼとぼここまで歩いてきた。

「流石に今日もう一回会えるなんて思ってないから、何も用意できてないよ」
「お構いなくです、俺が勝手に来ただけですから」

猫みたいな切れ長の目を細めて、優一さんは俺の顔を覗き込んでくる。

「京介がいたらできない話、しに来たの?」

……やっぱりこのひと、俺の心を読んでたりするんじゃないかな。
俺が怖がってること、してほしいこと、何でも見透かされてるような気がする。
優しい声に、剣城と居たときは頑張って堪えてた涙が、もう一回溢れてきた。

「あの……優一さんは、かわいいって言ってくれましたけど」
「うん」
「剣城には、そんな靴って、ちょっと面倒臭そうに言われちゃって。
 頑張ったけど、ダメだったんだなぁって思ったら……」

優一さんは何も言わないで、俺にコップを差し出した。
多分あのとき剣城が汲んできたんだろう水が、ちいさく揺れた。

「飲みかけで悪いけど」

差し出されたプラスチックのコップを受け取って、ひとくちだけ喉を潤す。
ほんの少しぬるくなった水は、それでも俺の頭をちょっとだけ冷やしてくれた。

「……剣城に、内緒にしてくれますか」
「いいよ」
「あの、この話、誰にもしたことないんですけど……」

今日初めてゆっくり話して、さっき出会って別れたばかりのひとに話すのはどうかと思う。
でも、なんだか話したい気分になっていた。
きっとそれは優一さんがさっきからエスパーみたいに俺の心を読んだようなことを言ってきて、
俺を見つめる目が剣城と同じ色で、それでいて大人っぽいからなんだろう。
俺の胸を満たすのは三国さんとか円堂監督とか秋姉に対して感じるものに近い安心感と、
剣城に対する鬱屈とした恋愛感情が混じり合った感覚だった。

「俺、剣城が好きなんです」

それは親友の葵にも信助にも、お世話してくれてる秋姉にも言っていないこと。
多分、身内の誰にも気付かれていないと思う。

「片想いなんですけどね」

あはは、と笑う声が自分ながら白々しい。
お兄さんに会わせてもらえる程度には仲良くなれてるけど、
携帯番号とメールアドレス教えてくれるまでに数日かかったし、
教えてくれたって特に何か連絡してくれるわけじゃないし返事もたまにだけだし、
日曜日に出かけようって誘ってくる割に制服で待ち合わせ場所に来るし、
頑張っておしゃれしてみたって何も言ってもらえないどころか怒られる始末だし、
寧ろ睨まれるし、歩くペース違うのに待ってくれない。
思い返せば思い返すほど惨めになるくらい、本当にただの俺の片想いなんだ。

「京介のどこがいいの?」
「どこって……」

ふっと目を伏せる。
最初は怖かったけど、この気持ちが恋に変わったのはきっと万能坂と試合をしたあたりだ。
ボールぶつけられたような覚えもあるけど、あのとき、俺を庇ってくれた。
あの試合で、俺ははじめて剣城のする本気のサッカーを見た。
何も言えなくなるぐらい、ぎゅっと胸が締め付けられるぐらい、恋い焦がれた。
産まれて初めて一人の男の子に、好かれたいって思った。
一人のサッカープレイヤー・剣城京介に恋をしたのは、その瞬間。
それから帝国戦でほんとうに俺たちの仲間になってくれたあと、
同級生として普通に仲良くなれて、そして一人の男の子としても剣城を好きになった。
基本的に冷たいけどたまに優しくって、格好良くって――いっぱいあり過ぎて逆に言い表せない。

「全部、好きです。剣城の全部が好き。だから、余計に悲しくって。
 剣城が俺のことを女の子としては見てくれないのが、辛いなって思ってます」

ぎゅっとコップを握り締める。揺れる水面に、酷い顔をした俺が映っている。
優一さんは蜂蜜みたいな綺麗な色をした目で俺の顔をじっと覗きこむと、
ふわって優しく笑って俺の頭をぽんぽん撫でてきた。

「えっ」
「嫌だった?」
「そんなことはないですよ」

剣城がいないなら睨まれることもないから、それを拒む理由はなかったし、
何より凄く暖かいなあって思った。年上って凄い。
あと、剣城のおかげで年下の扱いに慣れてるんだろうなあとも思う。
俺を見つめる目がすっごく優しいから、そんな風に感じた。

「京介には内緒にしておいてあげる」
「……ありがとうございます」

それはそうだ。これはいつか俺が自分で言わなきゃいけないことだから。
優一さんの口から剣城に伝えてどうこうなる問題じゃない。

「そんな話、伝えたくないし……」
「え?」
「何でもないよ、こっちの話」

優一さんは曖昧に濁すような笑顔で、俺の頭をもう一度撫でた。暖かい。
何を言ったのかは聞き取れなかったけど、俺はその笑顔で全部流された。

「酷いね、京介。天馬くんはこんなに可愛いのに」

今は傷付いてるから、そんな御世辞も素直にうれしかった。

「剣城は悪くないです。今日がダメならまた今度頑張ります。
 今はまだただの友達でもいいです。いつか、褒めてくれたらそれで」

だって俺と剣城はもともとただの友達にすらなれていなかったのだ。
それが今はこうしてお兄さんに会わせてくれる程度の仲良しになれたんだから、
そんな日だっていつか来てくれるんだと今は信じていたい。
ぎゅっと握りしめていただけだったコップを、優一さんに差し戻す。
優一さんは一瞬面食らった顔をしたけど、すぐにまたあの柔らかい笑顔になった。
かつん、とプラスチックとテーブルがぶつかる音。

「京介の話は、やめにしようか」
「え」
「君の話が聞きたいな。ねえ、天馬くんから見た雷門中のサッカー部はどんな感じなんだい?」

――ああ、俺がこれ以上剣城の話するのは辛いんじゃないか、とか、そんな事を思ったのかな。
気遣いが嬉しいような、くすぐったいような、そんな気分になった。
剣城がブラコンをこじらせた理由も解るような気がした。
こんな優しいお兄ちゃんがいたら、あれぐらい必死にもなるか。

「……えっと、俺から見たサッカー部はですね」

ぽつぽつと話し始めたら、優一さんは嬉しそうに相槌を打ってくれる。
それが俺にとっても嬉しかった。


話している間にいつの間にやら日は暮れていて、夕日が落ちてくる。
西日の差し込む病室の、真っ白なカーテンを引っ張ってから振り返る。

「また来てもいいですか?」
「うん。今度こそ、あのオレンジジュース用意しておいてあげる」
「約束ですよ」

くすくす笑いながら、俺は荷物を拾い上げた。
座ってお話している間に足の痛みは引いていたから、歩いたってどこも痛くない。
それに、ちょっとだけ気分も晴れた。

「……京介はさ、部活終わった後すぐここにきて、三十分ぐらい話して出ていくんだ」
「はい」
「だから、学校出た後すぐじゃなくって。どこかで時間潰してきてからおいでよ」

ああ。確かにはち合わせたら、気まずいことこの上ないもんね。
そんな事にまで全然気回ってなかったや。

「わかりました。ありがとうございます、優一さん」

そう言って、俺は病室のドアを閉めた。



病院からの帰り道、そういえば電源を落としていた携帯電話の電源を漸くつけてみる。
カラフルなドットの踊る起動アニメーションが終わるのを待って、
新着メールの問い合わせをして俺は目を見開いた。

「……新着メール、24件」

え、なにこれ。これが噂の迷惑メールなんだろうか。
浜野先輩や倉間先輩の携帯にたまに入ってくるという『体を持て余した人妻』からのメールが、
ついに俺の携帯電話にまで連絡を入れに来たんだろうか。俺中学生女子だけど。
やっと受信が終わって、メールの一通一通に目を通していく。
そこには懸念していた人妻からの出会いを求めるお誘いは届いていなくて、
数分おきにひたすら「今どこだ」ってメールが入っているだけだった。
送信元の欄には、剣城京介の名前。
そのメールは暫くの間ずっと送られていたけれど、途中で諦めたんだろう。
お昼三時を回った辺りで同じ文章のメールは途切れて、
そのあとは秋姉からのお使いの連絡が一通入っていただけだった。

「……気にしなくていいのに、意外と律儀だよなあ」

俺は最後のメールに、件名は空白のままメールを返す。

「今日はごめんね、俺の勘違いだっただけだから気にしないでいいよ。また明日学校で!」

絵文字もなにもない真っ黒な文章だけを返して、俺はもう一度携帯電話を閉じた。
そのメールに対する返事はないまま、日は開けて月曜日になる。



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