とまあ、そんな具合に食事の時間は終わったんだが――何をとち狂ったやら。
皆が寝静まった夜遅くに、おぼろ丸がオレの体を軽く蹴っ飛ばしてきた。
いきなり何をする、と聞く前に、コイツはオレの口を手で塞いでしまった。

「敵襲ではござらん。ただの私用」

私用なら蹴っ飛ばしていい、って訳じゃねえだろ。
ここはひとつ優しく揺り起こすとかだな……と溢れ出る文句を考えていると、
おぼろ丸がくいと顎で方向を指し示す。
それが何かを考えるより早く、コイツの姿は忽然と消えてしまった。
……雲隠れか?
まあ、恐らくは『着いてこい』って事なんだろう。

「何なんだよ」

届かぬ呟きをぽつりと漏らしながら、オレはおぼろ丸が示した方向へ歩き出した。
草を掻き分けながら、何処へ消えたのかを探っていく。
ただ先行しているのならまだしも、姿が見えないのが困る。
どこぞへと案内したいんなら、オレの視界には最低限残るように移動してもらわないと――

「アキラ殿」
「……どこだ」
「上に――暫し待たれよ」

したっという着地音とともに、奴が上から舞い降りてくる。
何処から出てくるんだお前は。
元の世界に帰ってから突然マンホールの中からお前が出てきてもオレは驚かねえぞ。
中から人が出てきたことに対しては驚いてもお前だった事には絶対驚かん。断固としてだ。

「で? いきなり夜中に叩き起して、何だってんだよ」
「貴方がどう思っているかを聞きたかった」
「オレが?」

一体何を。そう尋ねるよりも早く、おぼろ丸のガラス玉みたいな目が近付いてきた。
次にどうなってしまうのかなんて考えなくても解る。
オレは目を閉じて、降ってくる唇を迎え入れた。
押しつけられるだけの柔らかな感触。ひんやりとした空気の中でそこだけが熱を持つ。
薄っぺらいはずの場所がどくどくと波打つような錯覚。
唇ばかりに意識が集中していく中、ふと口を外したコイツが呟いた。

「……気持ち悪いと、思われるか」

気持ち悪い? 何が?
一瞬悩んだものの、すぐに思い当たった。さっきの話か。

「あれはディープキスの話だろ?」
「でい……」
「あー、その。舌突っ込んでのキス」

おぼろ丸は暫し考え込んでから、オレを磨き抜かれた青銅の様な瞳で見つめてきた。

「では、そのでい……なんとやらは、気持ち悪いと思われるか」
「質問に質問で返しちまうが、お前はお前がやって気持ち悪い事を他人に仕込むのか?」

目に僅かな動揺を浮かべながら、おぼろ丸は小さく首を傾げる。
こう言うとアレだが、最初にディープキスを仕掛けたのはオレの方だ。
当時は何が起きたもんだかさっぱり解っていなかったような子供に、ではあるが。
でもまあ、オレらの世界じゃコイツくらいの年じゃ知らない方がおかしい。
だから別に悪い事をしたとは思ってない。
ともあれ、オレは別にディープキスを気持ち悪く思うほど繊細な感情は
生憎ながらこれっぽっちも持ち合わせちゃいない。
高原のはアレだ、何か嫌な事でもあったんだろうよ。特例だ特例。

「むう」
「まあ何だ、その……オレとしてはさ? 誰でもいいってわけじゃなくてだな、その。
 お前としたいから、教えたのであって」
「……アキラ殿?」

――ああ、普段は視線一つでこっちの意図を汲み取れるほど鋭いってのに。
何でまた色恋沙汰になるととんと鈍くなるもんかね?
こうなりゃヤケだ。もともとオレは考えるよりも動くタチなんだ。
オレはすぐ傍にあるコイツのマフラーを引っ掴むと、そのまま強引に唇を合わせた。

「っん、う?」

唇で向こうの唇をそっと噛み、ふにふにと感触を確かめる。
そして、軽く舌先だけで触れてみる。
ちろちろと遊ぶように走らせていると、おぼろ丸からも反応が返ってきた。
差し出された舌と舌とを絡める。舌だけでするキスってのもまあ、乙なモンだよな?
尖らせた先端で互いの舌を舐めたりつついたりしながらの口付けは、
外気に晒されたそれが完全に乾ききるまでそれは続く。
乾いたなら乾いたで、今度は第二ラウンド。唇を押しつけて、深い深いキスの始まり。


そして話は冒頭へと戻る。
当然、未だにキスは続いている。
あれからこうして今に至るまでの流れを回想している最中も、ずっと終わらないまま。
そろそろ腫れちまいそうだな……なんて思いながらも、
一向に離れる気が起きないのはどうしてなんだろうな。

それでもいい加減に苦しくなって、そっと顔を引いてみる。
おぼろ丸はそれを追いかけはしなかった。オレがしたいように、同じく唇を離す。
ふと顔を上げれば、オレたちの間を繋ぐ細い橋をぼんやりと見つめながら
いつもの一割増しで頬を朱に染めているコイツの顔が見えた。

「お前は、さ」

とん、とコイツの胸に拳を当てる。

「気持ち良くねーのか? オレとこうしてるとき」

どうしようもなく恥ずかしくなって、そっと胸に顔を埋める。
自分より小さな体。けれど、一番落ち着く場所。
ちらりと目だけを上に向ければ、おぼろ丸はせわしなくあちこちへ目を走らせていた。
表情だけはいつもの氷の様なそれなのに、顔色は淡く色付き挙動は落ち着かない。
可愛いもんだな。銅像みたいな普段のお前よりよっぽど可愛いと思うんだけど、どんなモンかね。
くつくつと喉を鳴らしながら、オレはそっと目を閉じた。

「『確かに気持ちいい。けれどそれは官能的な意味ではなくて精神的な物で』……ねえ?
 オレとしてはどっちでも嬉しいんだけど、満足して貰えたんなら何よりだな」
「……勝手に心を読むのは感心しないでござるよ」

だってお前、口に出さねえんだもん。少しくらいは良いじゃねえか。
無性にニヤニヤしてくる頬を必死で引き締めながら、オレは一層強くおぼろ丸の体を抱き締める。
コイツはぴしりと固まっていたが。
いや、それはそれである意味いつも通りなんだけどな。




そして、翌朝の事だ。

「僕、思ったんですけど。大事なのは最初の相手じゃなくって、最後の相手だと思うんですよね」

いつになく真剣な表情をしたユンが、光のない目でそう切り出した。
何の話かさっぱり解らずリアクションに困っていたものの、
ユンは此方の応対などまるで気にせずにガンガンと言葉を続けていく。

「だって、いつ何処で何があるか解らないじゃないですか。
 今どうしようもない最初の相手より、改変されうる最後の相手を気にした方がいい。
 もう最初の人に慣れないなら、最後の人になればいい。そうですよね?」

……さて、何の話でしょうかね。
さっきから妙に高原の顔色が悪い様な気もしたが、オレは何も見なかったことにした。



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