その日の昼食はキャプテンにお弁当の供養を頼むまでが非日常で、あとはいつも通りだった。
信助と狩屋が人のおかずを取っていって剣城に怒られてたり、
葵と「あーん」って食べさせ合いっこしてたら狩屋にやたらいい笑顔で見つめられたり、
俺も信助も葵も剣城も狩屋も、みんなみんな本当に普通通りだった。
だから、今なんでこういう状況になったのかがよく解らない。

「弁当、美味かったよ」

午後の練習が始まる前に、キャプテンは軽くなった弁当箱を俺に差し戻しにきた。

「あ、ありがとうございます。お粗末様でした」
「いつも自分で作ってるのか?」
「たまにです。普段は秋姉……えっと、寮の管理人さんが」
「そうか」

キャプテンは少しだけ口ごもってから、チョコレートブラウンの優しい目をじっと俺に向けた。
改めて見るとキャプテンってすごい綺麗な顔立ちだよなあって思う。
キャプテンだし、お金持ちだし、お城みたいな家でピアノ弾いてるし、
その上美形なんだからまさに王子様っていうか、そんな感じだよね。
山菜先輩とかクラスの女子がキャプテンに黄色い声援送るのも解る気がするな。
……剣城の方がかっこいいよ、って思うけど、それは俺だけが知ってればいいから黙ってる。
とりあえず、そんな美形にじっと見つめられて、俺はちょっとだけたじろいだ。

「あ、あの、キャプテン?」
「……天馬」

キャプテンの顔はいつもより少しだけ赤くなってたように見えた。
ざり、と砂を踏む足音。それと一緒に、キャプテンが近付いてくる。

「天馬さえ嫌じゃなかったら、また――」

その言葉の後、キャプテンが何を言おうとしたのかは俺には解らない。

「えっ」

ぐいっ、と右手が引っ張られる。
痛みを伴う衝撃に慌ててそっちを見たら、そこにはさっきまで一緒にいた剣城がいた。
でも、表情が全然いつも通りじゃない。明らかに切羽詰まってるような、余裕のない顔。

「つる、ぎ」

俺もキャプテンも、何が起きてるのか全然解ってなかった。
解るのはただ、剣城の手がすっごい冷たかったってことぐらいだ。

「ちょ、ちょっと! 剣城!?」
「うるせえ、黙ってついて来い」

叫ぶ俺にも、固まってるキャプテンにも構わないで、剣城がぐいぐい俺を引っ張る。
そして無理やり連れて行かれたサッカー棟の裏で、話は冒頭に戻った。

「……剣城?」

切羽詰まったみたいな、苦しくて苦しくてもうどうすればいいのか解らないって顔で、
俺の顔の横に両手をついて壁際へと追い詰めてくる。

「ふざけんなよ」

見下ろす剣城の目は、水の上に浮かんだ氷みたいに冷たく揺れている。
ふざけるって何が。そんな俺の言葉は、剣城の視線で封じ込められた。

「あれだけ思わせぶりなことしておいて、結局神童? ふざけんな、今更認めねえ」
「剣城? 急に何言ってるんだよ、キャプテンがどうかしたの? つる――」

ゆっくり、剣城がその身を屈める。顔が近付いてくる。
同学年の男子と比べても頭一つ抜けるくらい長身の剣城にすっぽり覆われていた俺には、
それを止めるだけの腕力も判断力も備わってはいなかった。

「誰でも良かったんなら、俺だって良かっただろ」

降ってきた呟きに俺が返事するよりも早く、剣城の顔がずっともっと近くなる。
それこそ、目と鼻の先。俺の目には、男の子にしては長い剣城の睫毛が映る。
そして数秒遅れで唇に伝わる、しっとりした柔らかさと温かさ。
鼻先で剣城の息を感じて、俺たちの距離がゼロになったのを知った。

「えっ」

喉から出たのはそんな悲鳴だけだった。
何が起きてるんだか本当に解らない。ただ、地に足が着いていないような奇妙な感覚を味わう。
夢でも見てるんだろうか。まさか剣城が、俺にキスしてきたなんて。
ちょっとだけ顔を離したときに、囁くような声が降ってくる。

「こういう時は、目、閉じろ」
「う、うん」

全然よく解んないから、俺は剣城に言われたまま目を閉じた。
そして視界は全部闇に消える。何も見えないから、剣城がどうするのかも解らない。

「……解ってないくせに、目閉じんなよ。お前、神童に同じこと言われたってこうするんだろ」

剣城が何に怒って焦ってるのかも、見えないし解らない。
ただ、剣城の唇って意外と柔らかいんだなあとか、俺今変な顔してないかなあとか、
そんなどうでもいいことにしか気が回らなかった。

「お前、どうやったら俺だけになるんだよ……」

苦しそうな声が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはまた唇が押し付けられてきた。
目を閉じたまま感じるキスはさっきよりもずっと熱かった。

雲に乗ったみたいなふわふわした気分を、俺はここのところずっと味わっている。
原因は解ってた。剣城が、あの剣城がやっと心を開いて、俺たちの仲間になってくれたからだ。
ううん、仲間じゃない。もっと近い、これはなんて言えばいいんだろう。

「ねえ剣城、夢でも見てるのかな」

ひんやりした壁の冷たさが、夢心地の俺を少しずつ覚醒させていく。
恐る恐る伸ばした手で剣城のユニフォームを摘んでみたけど、抵抗はなかった。

「あのね、剣城。俺、剣城のこと」
「……お前」

剣城はもう一回俺にキスをして、うんざりしたような声を出す。

「距離感なさすぎて、解りにくい」

どっちの台詞だ、と思った。
剣城が全然表に出さないから、こっちだって訳解んなくて焦って勇気も出なくなったのに。
夢でも見てるような高揚感が過ぎて、ようやく地に足がついた。
遠いと思っていたひとは、意外と近くで俺を見ていてくれたらしい。
それは嬉しいような恥ずかしいような、奇妙な気持ちで俺をいっぱいにする。

「……どうにもならないのにやるから悪足掻きって言うんだよな」
「あ、ついに諦めんの?」
「まさか」

今起きた出来事への実感がなくってぽーっとしながら惚けていた俺には、
物陰でキャプテンと霧野先輩がそんな会話をしていたことなんて全然気付かなかった。



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