はあ、と深々息を吐く。
白いもやになったそれは寒空に溶けて、ふわりと舞い上がった。

その向こうで、あのひとがへらりと笑っている。

「なんだ、もう疲れたのか?」

悪意のない笑顔と屈託のない暖かな声色に、ずきりと胸が痛む。
弟に向けているような優しい視線も、今はただ悔しさを煽るだけだ。

「そんなんじゃないですよ。ちょっと雪景色に気を取られていたんです」
「ああ、ユンはお前と違って感受性豊かで素直ないい子だからな」
「素直じゃねーのはお前だろ!」

アキラさんに突っかかっていくあのひとを見るのは、微笑ましくもあれば憎らしくもある。
だって、あのひとから見て僕はまだ保護対象なのだ――と。
結局、「子供」という評価からは変わっていないのだと。
けれどもアキラさんは、あのひとと対等な存在なのだと思い知らされるから。


「お二人とも、仲がいいのは結構なんですが。このままだとポゴさんを見失いますよ」

暗い気持ちを振り切るため、笑顔を作ってそう告げる。
次第に遠くなっていく人影に、アキラさんが苦々しそうに声を漏らした。

「だーッもうあの野性児! さっきからどこ向かってんだよ」
「おしっ、じゃあ追いかけるか!」

そう言いながらも、お二人は素早くその身を反転させて雪上を駆け出した。
両極端の気性に苦笑しつつ、僕も必死に追いかける。
白い雪原を凄まじい速さで駆け抜けるポゴさんを、見失わないように。


あのひとの背中に、追いつくように。



******



「嫌、です」

ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、ユンは何度もそう繰り返す。

「行かないで、行かないで下さいっ。一人に、一人にしないで!」

置き去りにされた子供以外の何でもない声を上げ、ユンは俺の服をぎゅっと握り締める。
皺の大きさは尋常じゃない。多分、とんでもない力が掛かってんだろう。
もしこれで、掴まれたのが服じゃなく腕だったら?
――想像にも関わらず骨の軋む音が聞こえたので、それ以上は考えないことにした。
今はコイツを宥めるのが先だ。

「落ち着けよ、いきなりどうしたんだ?
 行くとか行かないとか、一人にするなとか。俺はここに居るだろ」
「だって、だって高原さんは、この旅が終わったら自分の世界に帰っちゃう。
 そうなったら、僕、一人だから。一人に、なる、から」

ひゅうひゅう肩で息をして、ユンは半狂乱気味に言葉を続ける。
……駄目だ、相変わらず話が通じてねえ。

「何言ってんだよ。そんなの、お前だって帰るだろ?」
「……嫌。嫌、嫌あっ!」
「ユン、おいユン!」
「嫌だ、嫌だ! だって、だって僕……僕には、僕には貴方だけなんです!」

何とか話がしたかった。
ちゃんと一から、落ち着いて話がしたかった。
けれど、どうもそれは叶いそうにない。

「高原さん、高原さん、高原、さん」

俺の名前を叫びながら助けを求めて縋り付いて来た子供を、どうして振り払える。
泣きじゃくって抱きついてきたユンを、どう引き剥がせばいいって言うんだ。

「皆さんの為に、強く、強くなりたかった。のに。役に立ちたかった、のに。
 貴方といると、どんどん弱くなる。嫌な子に、なってく……」
「ユン」
「……貴方が好きです。好きなんです。だから、だから……置いて行かないで。
 僕を、一人に、しないで」

その言葉に、頷く訳にはいかない。
ここで俺が首を縦に振れば、きっとユンは花が咲いたような笑顔を浮かべて喜ぶんだろう。
でも、それじゃ駄目なんだ。それじゃコイツは強くなれない。
俺の肯定が生み出すのはただの依存だ。依存だけじゃ前になんか進めない。
ユンは、強くならなきゃいけないんだ。

――だが。

「高原さん……返事、して下さい。高原さん……お願いします。
 うん、って。頷いて下さいよ……高原さん……」

悲痛な声で俺を呼ぶ子供を突き放す様な事なんて、俺には言える筈もなく。
ただただ何も言わず――ユンを見ている事しか、出来なかった。



******


「だって、だってアイツらは俺のせいで死んだんだ。俺に関わったから、俺が……」
「高原さん、落ち着いて下さい! 高原さ――」
「っるせえな、お前に何が解んだよ!」
「解ります!」

ぴしゃりと冷水を浴びせてきたかのようなユンの声に、高原は二の句を失った。
言おうとした文句を飲み込み、目の前の少年を見やる。

「……僕だって、同じです。僕のせいで、僕の弱さが大切な兄弟子たちを殺しました。
 でも……いいえ、だからこそ強くなりたいんです。
 今度は誰も傷付かない様に、今度は誰かを守れるように。
 誰よりも優しく、そして勇気を持ちたいから。だから強くなりたいんです!」

少年は震えていた。けれど、瞳の光は暖かくて力強かった。
繰り返し述べるは迷いのない言葉。儚くも堅固な覚悟の言葉。
真っ直ぐな声が、高原の胸にすとんと落ちていく。

「あなたは違うんですか? あなたはただ力が欲しいんですか?」
「それ、は」
「もしもそうだと言うのなら――そんなの、獣と何も変わらない!」


しんとした世界に、しゃくりを上げる子供の声だけが響く。
高原は、行き場をなくしてさまよわせていた右手をぽんとユンの頭に置いてやった。
瞬間ぴたりと泣く声が止んで、その代わりに責める様なジト目が此方を見上げてくる。

「……何ですか」
「いや、良い年して子供泣かしちゃ世話ねーなって」
「子供扱いしないで下さい」
「そうだな」

高原はへらりと笑いながら、自分よりも遥かに小さなその頭を撫でた。

「強いもんな、お前」

その言葉はまた自分を子供扱いしているように聞こえたけれど、
ユンはもう何も言わずにその手を享受していた。
彼の微笑みが、自分の一番好きなそれに戻っていたからだ。



******



「高原さんって、元の世界に恋人とかいらっしゃらないんですか?」

なんの脈絡もないその発言に動揺したのか、先頭をきって歩いていた高原は盛大にすっ転ぶ。
そして間をおかずに立ち上がって、ユンの肩を掴んだ。

「お前は! いきなり! 何を!」
「いえ、ふと気になって。その様子だと、いらっしゃるんですか?」

ユンは表面上柔らかく笑ってるけど、内心はどうなんだろうな。
こいつは物腰柔らかそうでファンシーな雰囲気をしちゃいるが、
実際はそこまで柔らかくもなく、即決即断即実行の思い切った奴だ。
その辺りはお国柄ってことなのかもしれねえな。行動に躊躇いがないし意外と自重しない。
何だかんだでオブラートってもんがねえんだよこいつの発言。

「……悪かったな、そういうのは得意分野じゃねえんだよ」
「そうですか。良かった」
「あ?」
「いえ、こっちの話です」

そうやってニコニコと笑いながら、高原の気を逸らす。
花のような笑顔って言葉があるけど、アイツを花に例えるなら鈴蘭一択だろうな。
選定理由は言わずもがな毒とか毒とか毒とかだけどよ。

「……あの、アキラさん。そんなに胡散臭そうな目で見ないで下さい。減ります」
「ああ、しばらく見ててやるからそのまますり減って無くなっちまえよ」
「残念ですけど減るのは僕自身じゃなくて貴方にはない繊細な清い心なんですよねえ」
「繊細? お前が? 洗剤が必要な黒い心の間違いだろ?」

高原を挟んで、笑顔のままのあいつと無表情になっていくオレとの喧嘩が始まる。
オレたちの間に挟まれた高原の顔は見る見るうちに青くなって、
救いを求めるように足元のキューブを抱え上げた。

「おいリーダー、これもう無理だろ。俺の代わりにオッサン入れるかアイツら引き離せよ」

高原の腕の中で、キューブは無慈悲に電子音を鳴らした。
そう、現状維持を知らす音を。



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