男の子が大きくなるなんて一瞬のことだ。
それはまるで手のひらで雪が溶けていくような速さで、少年は「男」になる。
黙々とハーレーの手入れをするアキラの横顔もまた、
私の知らない間に「男」の物になっていた。
よくケンイチさんの後ろにくっ付いていっては
怪我だらけで帰ってきたあの頃が懐かしくなるくらい、ずっと大きくなった。

「勢が出るわねえ」
「妙子」
「……大事にしてるのね」

もともとはケンイチさんのものだったハーレーは、アキラが引き継いだ。
最初は不釣り合いだったはずのそれも、今はぴたりとこの子に馴染んでいる。

「大事にしない訳がないってば。で? 何かあったのか」
「うん、今日バレンタインでしょ。だから」

皆に配っているのと同じカップケーキを、アキラの手に乗せてやる。
その時、私は知ってしまった。
この子の手の位置が私よりもずっと高くなっていたことに。

「……ああ、そっか。有難う」

去年は真っ赤になって喜んでた癖に、今年のアキラは妙に大人しかった。
そして、随分とまあ格好良く微笑んでみせた。

「何すましちゃってんのよ、バレンタインに一人でバイクと睨めっこしてるくせに」
「うるせえな、しょうがないだろ」

磨き布を握り締めて、アキラは私に背を向ける。

「だってアイツには、もう会えないんだもん」

そして返ってきた声は、アキラの背中は、酷く大人びていた。
だから、私はもう何も言えなかった。
そう――とただ一言を残して、その場を離れるしかなかった。



あの子が恋した「アイツ」とは、果たしてどんな子だったのだろう。
帰ってきた途端にあの達観ぶりだもの。気の強い子に、振り回される様な恋をしたのかしら。
それとも面倒見の良い子だから、どこか抜け気味な子が放っておけなかったのかも。
あるいはいつだって楽天的な子の相手をしているうちに、自分が落ち着いていったとか。
いろいろなパターンを空想しながら、私は寒空の下を歩いていく。
あの子が大きくなっていく過程を見れなかった事に、深い落胆を覚えて。



******



「……か」

高原の声は、あっさりと夜風にかき消された。
消えた音にはいつもの様な力強い響きがなく、今にも折れてしまいそうなほど小さかい。
こんなに暗い夜ですら聞き取れない程のか細い声。
それがまさか彼の口から出るなんて思いもしなかった。
だってあたいは、馬鹿みたいに明るい彼しか知らないのだ。
こんな悲壮な顔をする人だなんて、今初めて知ったのだから。

「何だって?」
「……さなきゃ、いけないのか」
「そんな声じゃ聞こえないよ。腹から声出してハッキリと言いな」
「――殺さないと、強くなれねえのか!?」

叫ぶ高原の横顔は、月に照らされ青白く浮かぶ。
満月が人を狂わせたのか。
瞳孔の開ききった目をあたいに向けて、彼はただただ叫び続けている。

「誰かを殺すことで示す力なんかに意味があるのか!?
 トドメを刺さなきゃ最強になれねえのか!?
 そうじゃねえだろ、俺は……俺が強くあるために誰かを殺すなんて、絶対に嫌だ!」
「……力?」
「そうだ、力。誰よりも強い力。最強の……」
「その程度で最強ね。聞いて呆れるよ」

見開かれた目が、刺すようにあたいに向けられた。
そしてそれが忌々しげに鋭くなって、ギリギリと歯を鳴らし出す。

「何が言いてえ」
「強さを示すには、それよりも強い力を見せつけなきゃいけない……そう考えてるだろう。
 それじゃ殺そうが殺さまいがおんなじさ。あんたは何も解っちゃいない」
「……じゃあ、じゃあどうしろってんだよ!」
「決まってんだろ? 真の強さは力で決まるんじゃない。それを示すのは――」

とん、とあたいは彼の胸を突く。

「心だよ」

途端に泣き出しそうになった彼の顔は、いつか見た弟分のそれに似ているような気がした。



******


ほんの僅か離れたところに、彼の顔がある。
薄目を開けて伺った表情は何時もと同じく冷たくて無機質だ。
けれど、それが少し熱を帯びているように見えるのは自分の欲目だろうか。
恐る恐る顔を近付けて、そうっと唇を彼のそれへと押し付ける。
絡ませていた指先に、きゅうう……と力がこもった。

はふ、と熱い息を吐く。
本当は余裕を持って彼を味わいたい、のに、濡れた唇の感触と震える体がそれを許さない。
何度も何度も唇を合わせ、その形を確かめる。
ただ重ねるだけで此処まで身悶えてしまうなら、
この先に辿り着けるのは果たしていつになるのだろう。
その前にそんな日が来るんだろうか?
思い耽りながら舌を出し、彼の薄い上唇をちろちろと伝わせる。
ぴくりと肩を跳ねさせた彼はされど抵抗もせずに、目を伏せたまま口を開いた。

「ん……う、はふ、っ」

舌が絡む。吐息が混ざる。繋いだ手が強く強く握り締められる。
人形みたいな彼が熱くなっているのがどうしようもなく嬉しくて、
ざらつく小さな舌を何度も何度も絡め取る。
何かする度にビクビクと震える小さな体が妙に可愛らしい。
そう。震える彼は可愛らしかった。


混ざり合った呼吸で荒い息をしながら、胸の内で十字をきる。
私は、咎人なのだ。
既に人ではなく死んだ身であるというのに、生きた彼を惑わせた。
それは紛れもない罪。

(けれど)

私は繋いだこの手を、離したくない。

(主よ、私の罪をお許し下さい)

この手だけは、離したくなんか、

(私に)

私は、

(この子を、ください)


「は、ふ」

瑠璃の瞳は桜でも浮かべたかのように淡く色付いている。
そして潤んだ眼差しで、彼はこう呟くのだ。

「……お前の舌は、氷みたいだ」

手も吐息も何もかもが冷たい、と。

「当たり前でしょう。死んでるんですから」

私はただ、その熱が恋しかった。






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