――ええと、何がどうしてこうなった。

「ふふ。あは、あははっ。私が君でぇ、君が私でぇ、ふふふっ、ふふふふふ」

笑い上戸か。いやこれは笑い上戸で片付けられる領域なのか。
これではまるで人格が反転しているようじゃないか。
魔王は杯を握ったまま、腹を抱えて無邪気に笑っていた。いっそ気持ち悪い。

「飲みすぎだ、魔王」

杯を奪おうとしたが、阻まれた。そこまで酩酊はしていないらしい。
意味が解らん。気がやられるまで飲んでいるくせに。

「嫌だよ、っていうか……魔王って、何それ?」
「は」
「私はただの剣士だよ。見れば解るじゃない」

いや、どう贔屓目に見ても人外だ。冗談はその羽をしまってから言ってくれ。

「……頭、大丈夫か?」

絞り出すような声で言えたのは、その一言だけだった。
私が人の心配をするのは異常事態だ。そんな事は久しく記憶にない。
とにかく、不安になる程に今の魔王は奇っ怪だった。
傲慢と拒絶とを纏って好き勝手振る舞うあの姿はなりを潜め、
気味が悪いぐらいに人なつっこい笑みを浮かべて、気分良く杯を煽る。
新手の嫌がらせか気持ち悪い。

「なんで? だってほら、ここに私の――あれ」

魔王は自分の腰をぱたぱたと手で叩いてから、部屋中を見回す。

「あれ? え? なんで?」
「何を探している」
「剣。剣がないんだ。私の剣」

剣――記憶の限りでは、魔王が剣を握っていたことなどない。それは鎧人形の役目だ。
こいつが剣を振るう必要はないのだ。何せ、道は全て従者が切り開くのだから。

「お前が剣を握っていた事など、ただの一度もないだろう」
「そんな、嘘だ。だって剣だよ。剣士の唯一にして誇りだよ。誓いの証なんだよ」

珍しく生気を宿した紅玉の目が、信じられぬとばかりに大きく見開かれる。
酔った魔王はどこまでも感情に素直だ。

「君には解らないかな、異国の人。私たち剣士からすれば、剣はとても大事な物なんだ。
 それは商売道具って意味もあるけれど、一番の理由は心を示すための証だからさ。
 私たち剣士は、その人と決めた主君に剣を捧げる。主君のためにその身を賭ける。
 何を犠牲にしても、剣に誓って主君を守り続ける。そのための証なんだ。
 まぁ、私はまだ剣士であって騎士ではない。信ずるべき主君は見出していないけれど」

自称剣士はそう言って、ぐっと杯を煽った。そして遠くの方を見つめて、呟く。

「……変なの。私なのに私じゃないみたいだ。こんなにすらすら何かを解説できるなんて」

まぁ、今のお前はお前であってお前ではないだろうからな。
――自称剣士の正体に目星は付いた。
これは魔王の過去の記憶、そうでなければ深層心理だ。
酒によって表裏が入れ替わったと言うべきか、堤防が決壊したと言うべきか。
とにかくこいつは魔王であって魔王でなく、剣士であって剣士ではない。もっと別の何かだ。
しかしあの魔王の素がこれか。これなのか。本当に何がどうしてこうなった。
いやそんな事はどうでもいいのか。個人的には小一時間問い詰めたい所だが。

「お前が剣を持っている所など、私は見た事がないな。捨てたんじゃないのか」

私の言葉に、自称剣士は赤い目を伏せる。
立ち居振る舞いは理性的なのに、目の輝きだけは気狂いを起こしていた。

「じゃあきっと、折れちゃったんだよ」
「折れた?」
「物理的な意味じゃない。きっとね、剣を捧げたものが壊れたんだよ。
 騎士は二君を持つ者じゃないのさ。だから剣を捨てた。そういう事だよ」

自称剣士は、血を固めたような赤黒い目を眠たそうに細めながら、
私の肩に身を寄せて体を預けてきた。
一瞬素で驚いて、目玉がどこぞに飛んで行きそうになった。

「おい、だから飲み過ぎだ!」
「私だって飲みたいときはあるよ」
「今後のために忠告しておいてやる。お前は酒を飲むな。お互いの精神の安定の為にもだ」
「ええ?」

心臓に悪い。なんだこの素直な生き物は。本当に魔王と同一の存在なのか。
いっそ双子の弟だとかそう言って貰えた方が有り難いんだが。
ああこら、頬を擦り寄せるな。何だこれは。据え膳か。据え膳だったのか魔王。

「……ねぇ」

とろとろに溶けた紅玉が、私を見上げて怪しく輝いた。
奴の体に混じっている龍の血がそうさせるのだろうか?
纏う雰囲気は甘露煮よりも甘ったるいが、有無を言わさぬ何かが目の底で冷えている。

「君はさ、そういうのってないの?」
「……どういう」
「何となく解るよ、異国の人。君、拳闘士さんでしょう?
 私と同じ。剣と拳なら従兄弟みたいなものだよ。居ないの? 捧げたいと願う相手」

今の今まで合ったり合わなかったりしていた視線が、射抜くように私に注がれている。
酒のせいですっかり据わってしまった真紅の眼差しは、
私の呼吸と思考をまるで石にでもしたかのようにぴたりと止めてしまった。
指先が手に触れるか触れないかの位置で行き来して、くるくると空中を撫でる。

「ねえ」

猫の目、いや龍なのか。
とにかく切れ長の瞳孔が、収縮を繰り返す。誘うように。笑うように。

「その拳、誰のためにあるの?」
「――飲み過ぎだ、本当に」

寄りかかる魔王の頭を二度三度、さながら子供をあやすようにして撫でつける。
すると有り得ないぐらいに満足げな顔をして、魔王は私の胸に体を預けてきた。
素直すぎて気持ち悪いが、まあ悪い気はしないかもしれない。

「大事にしないと、だめ……なんだよ。私には、できなかったみたいだから」

人間をやっていた頃の魔王に何があったかは知らない。聞くつもりもない。
最も、向こうから言い出した場合は聞いてやらない事もないが。
ともあれ、180度以上の変貌があったことは見てとれる。
何せ今のこいつは、誰かに積極的に触れようとしたり寄りかかったりはしない。
ありとあらゆる物を拒絶して、はねのけるだけなのだから。

――剣が、心が、折れたから。

私の胸に体を寄せていた自称剣士は、そのまま夢の中へと落ちていく。
あの張り詰めた、どこか必死な横顔に比べて、その表情は穏やかであどけない。
母に抱かれる子供のそれだ。こいつにはこんな表情も出来るのか。
ふと考える。
こんな風に、完全に心を許した魔王が、柔らかく笑いながら私の名前を呼ぶ。
ああ、一から十まで完全なる怪奇現象だ。医者を進める他ない。
でも、それは確かに「在ったこと」だ。理由は知らんが。
ただ、魔王がこうやって素直で無邪気で若干鬱陶しい人懐っこい奴だったのが、
一か零か、与えられる物は全て拒み、目に入る全てを呪うようになった。
それは紛れもない事実で、その引き金は人間らしい。

「……酷いものだな」

そう呟きながら、眼下の金の髪へ手を伸ばす。
ついさっきそうしたように、頭でも撫でてやろうと。体がそう、勝手に動いていた。
そして。

「――ッ」

咄嗟に身を引き、寝台にべたりと倒れ込むのも、体が勝手に動いた結果だった。
私を見下ろす、見開かれた血色の目。ぜえぜえ肩で息をしながら、震えている。
不意に、頬に熱を感じた。切り開かれた肉から零れる血がそうしていた。
魔王の、異形へと変貌した漆黒の左腕。鈍色の爪に、赤い鮮血が伝っている。

「不眠症め」

寝付けないのは知っていたが、ここで起きるか――そう毒づきながら、体を起こす。
それは相当緩慢な動きだったが、魔王は別に更なる攻撃を加えようとはしなかった。
どうも、まだ酒が残っているらしい。顔色が異様に悪く、目が据わったままだ。

「……忘れろ」
「何を」
「全てをだ! ……くそ、二度と貴様の前で酒は飲まん」

魔王は苦々しげな表情でそう吐き捨て、ぐったりと寝台に倒れ込む。
寝たいが眠れず、吐きたいが出るものがない。そんな表情だ。
夢が覚めるかの如く、あの人懐っこい表情は剥がれて消え落ちていた。
一瞬の眠りの間に、自称剣士はそのまま溶けてまた深層へと潜っていったらしい。

「ああ、そうしてくれ。心臓に良くない」

言いながら、鱗がびっしりと生えた左腕を引く。
そして爪を伝う私の鮮血を舐めとり、甲へ唇を落とす。
魔王は幾度か大袈裟な瞬きをして、それから心底嫌そうな顔で目を逸らした。
力が出ないのか、抵抗はなかった。するなら止めてやったのに。

「……気色悪い」

振り絞るような声で、そう言う。
声に感情はない。

「何だ、人がせっかく捧げてやろうというのに」
「何を」
「拳を」

魔王は一瞬真紅の目から光を失い、直後に心から嫌そうな顔をして一言だけ呟いた。

「返品する」

想像通りの反応に、私は何故か酷く安堵していた。



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