意識は朦朧としていた。
広間に充満するのは、自分と辺りに転がる門下生から滴る血の香りだけ。
鋭い痛みが思考回路を焼き切り、視界すらも奪っていく。
死ぬのだろう。
いっそ諦めにも近い思いが俺の胸を締める。思えば、俺には力以外何もなかった。
走馬灯になる記憶すらないようで、俺の意識はただただ薄れていくだけだ。
何も思い出すことなく、このまま事切れるのか。
「……無様だな」
ああ、アイツならそう言うかもしれないな。
そしてこんな俺を見て、嘲笑うに違いない。
「でも、当然の報いなのかもしれないね」
アイツならきっと、
「君も私も、あまりに多くを省みなかった。そのツケが回ってきたんだ」
――ちょっと待て、これは誰だ。
声は随分聞き慣れた物だ。第一声にも覚えがある。
しかし、その後からがおかしい。奴にしては言葉の端々が優し過ぎやしないか。
脱力しきった体に鞭を打ち、無理やりに顔を上げる。
そこには確かに奴が、『魔王』がいた。
しかし、その表情は酷く穏やかだ。
血に濡れた赤い羽根はそのままなのに、瞳はそうではない。
目からはあの暗い輝きをした深紅が消え失せ、今は澄み切った翠色をしていた。
「貴様、は……」
何者だ。
そう問いただしたかったが、出来なかった。もう声など出ようもなかった。
「やだな、私の事忘れちゃったの?」
柔らかく微笑みながら、奴は俺の前にぺたりと座り込んだ。
心当たりは一つしかないが、その心当たりと目の前の人物には天地の差がある。
黙り込む俺に奴は暫く悩むような素振りを見せていたが、
「んー……私としてはこっちが素だから、このままの方が喋りやすいんだけど。
君からすれば、あっちの方が親しみやすかったのかなぁ」
そう呟くと、俺にとびきりの笑顔を見せてからこうのたまった。
「貴様は、人の顔一つ覚えていられないのか?」
ああ、本物だな。おまけに笑顔のままなものだから余計おぞましい。
今更何かを言う気にもなれず、俺はまたぐたりとその場に突っ伏す。
魔王は何も言わなかった。ただ、俺を見つめていた。
「お互い、ボロボロだね」
「……気持ち、悪い」
「それは君が負けたからだよね? 私の口調が、だったら怒るよ?」
残念だがどっちも同じ程度に気持ち悪い。急に毒が抜けすぎだ。
此方の反応が不服なのか、魔王は少し不機嫌そうな目を向けている。
新鮮だった。
結構な時間をこいつに浪費させられた割に、俺はこんな表情一つ見たことがなかったのだ。
それこそ、先ほどから浮かべている柔らかな笑顔すら。
「私、もうすぐ死ぬみたいだよ。多分、地獄にでも行くんじゃないかな」
魔王はどうやら、俺の答えなど求めていないようだった。ただ淡々と語り続けている。
「今度こそ、みんなとは完璧にお別れになるんだろうね。
あ、プラッカーは待っててくれてるかもしれないな。
プロフェは待っててくれてるかな。私のこと、見つけてくれるかな」
あの一人と一匹なら、その身に代えてでもお前を引きずり倒していくだろうさ。
熱狂的な信者に絡まれて困惑する『今の魔王』が目に浮かんで、少しだけ痛みが和らいだ。
「……だから、最後に君に会いに来てみたんだ。ね、君はどこに行くんだろうね」
魔王の手が延びている気がした。最早視覚はあてにならず、気配で感じただけだ。
「どうせなら、私と一緒にいく?」
なんだ、お前は俺を迎えに来たのか。
魔王の次は死神にでもなったと言うつもりか。俺を地獄まで道連れにするのか。
あいつは何も言わなかった。俺も特に抵抗しようとは思っていなかった。
どうせこの世に未練などない。
くだらん現世に縛られるよりは、こいつと地獄でも散歩した方が余程――
「……でも、駄目。君だけは絶対に連れていってあげない」
魔王の手が離れていく。
それは見えていないからそう感じただけで、実際には消え始めていたのかもしれない。
「わざわざ私が顔を見に来てやったんだ。人間なら人間らしく足掻いてみせろ。
ああでも、復讐などと浅ましい事は考えるなよ。それでは私と何も変わらん」
そう呟く声は酷く聞き慣れた尊大な、それにしては随分甘ったるいものだった。
「……お前と過ごした時間は、あれはあれでなかなか面白かったのかもしれないな」
ばさりと羽の開く音がする。
意識はどんどん薄れていくのに、聴覚だけは異様に鮮明だった。
「……なんて。こっちも私のはずなのに、やっぱり上手く言葉に出来ないや。
君は気持ち悪がるんだろうけど、こっちも本当の私だからそこは諦めて欲しいな。
とにかく魔王オディオとして。そしてオルステッドとして言うよ」
何も見えないのに、何も感じない筈なのに、何故か体が暖かくて、
「今までありがと。さよなら。それと――君の世界の言葉ではこう言うんだっけ?」
頬にほんの小さな何かを感じた瞬間、その温もりは霧散する。
「うぉ、あい、……」
最後の一言は、聞こえなかった。
ゆっくりと体を起こす。
痛みは今も続いていたが、意識は不思議と確かだった。
「……ふん。時間切れとは、最後まで色々と足りていない魔王様だったな」
砂埃を払い落とし、口の中に溜まっていた血も吐き出す。
思っていたよりも激しく壊れていた広間を見渡し、
そこに残されていた赤い羽根に手を伸ばす。
魔王が最後に残した痕跡を、その手の中へと収める。
「そうだな。お前に会ってからは、確かに退屈など感じた事はなかった」
深紅の羽根。
焼き尽くしてしまおうかとも思ったが、止めた。これ以上この場を汚したくなかった。
代わりに懐に入れ、そっと左胸に押し付ける。強く抑える。
血よりも赤い羽根。
魔王が――いや、オディオが。オルステッドが残した唯一の痕跡。
魔王でも魔王でなくても同じことだ。
あいつだって言っていた。どちらも私だ、どちらも同じ、一つの存在なのだと。
「……しっかり見張っておけよ、人形騎士」
どうやらあいつは道連れをよしとしなかったらしい。
それこそ俺が天寿を全うするまでは、笑顔で蹴り飛ばして強制送還させる気だろう。
何処に行くのか、とあいつは言った。
行く先は一つに決まっている。地獄以外有り得ない。
今までの業もそうだが――俺は、続きを聞かねばならないのだ。
途切れた言葉の先を。そして、それに対する答えだって伝えなくてはいけない。
「それまではお前に預けておいてやるさ」
今は悲鳴をあげる体をどうするかの方が問題だ。
俺は一人、荒れきった室内を見渡して大きく息をついた。