「命令だ」

そう言って赤い羽の悪魔が俺に差し出したのは、鈍く光る銀の鋏。
何だと訪ねるよりも早く、奴はふんぞり返ってこう言った。

「私の髪を切れ」



パラパラと床に落ちていく金糸を見下ろしながら、俺は溜め息を吐く。

「こんな事の為に俺を呼んだのか」
「他に何がある」
「あの人形に頼めばいいだろう?」

何故俺が顎で使われねばならない。こいつには最適な従者がいるだろうに。
そんな思いを込めてわざと憎々しげに言ってやったのだが、
残念ながら返された言葉はたったの一言だった。

「鋏が持てん」

成る程、設計と主の頭に問題があったようだ。

「大体、プラッカーにやらせてみろ。確実に一本残らず落ちた髪を拾い集めるだろうが。
 貴様はされると解っていてそれでも自分の髪を拾わせたいのか?」
「……否定はしないでおこう。あと、少しは従者を選べ」

拾い集めるだけで済めばいいが。あれの事だ、恐らく匂いでも――
いあ。言わないでおこう。何故わざわざ気持ちの悪い想像を口にしなければならないのだ。

「なら、あれはどうだ。お前が普段憂さ晴らしに使っている――」
「……ふふ」

言い終わるよりも早くに魔王が笑い始める。
くつくつと喉を鳴らし、赤い羽を揺らしながら、酷く楽しそうに。

「同じ家畜に頼むならプロフェに頼むさ」

あっさりと、そして一瞬で切り捨てる。
随分とまぁ冷たい事だ。その冷たさは嫌いではないが。

「ふん……なら少し大人しくしていろ。手元が狂う前にな」

狂った刃先が何に向かうのかは言うまでもない。
真っ白な首筋。羽と揃いの赤い花は、どれだけ美しく咲くだろう。

「俺に鋏を持たせた事に後悔したくないだろう?」
「狂った時には消し飛ばすまでだ」
「成る程」

会話を止め、再び散髪作業に戻る。
こんな埃っぽい場所に閉じこもっている割には随分瑞々しい髪をしている気がするが、
果たして何を食べればこうなるのか少し疑問に思った。
いや、十中八九「ヒト」が食べるような物は食べていないだろうから、
恐らく俺の参考になる事は殆ど無いに等しいのだが。
どうせ生き血だの踊り食いだのと嫌な意味で栄養価の高い物だろうしな。

「何か妙な事を考えていないか?」
「さぁな、身に覚えがない」
「貴様……っ、ん」

指で毛先を払った瞬間に耳を掠めたのだろうか、ぴくりと魔王の肩が跳ねる。
震えた羽が音を立てるのを聞き、俺は小さな悪戯を思い付いた。

「痛いか?」
「そんな場所に神経が通っている訳無いだろう」
「返事ははいかいいえだ」

正面に回るなり、不機嫌そうな血の色の視線が突き刺さる。
自分から鋏を持たせた癖に、そんなに俺が信用出来ないのか。
俺も人の事が言える立場ではないが。

「見惚れたか?」
「蒸発したいなら最大火力でやってやるぞ」
「ほう、それは怖い。前髪を切る為に目を閉じて貰いたいのだが、それすら許されないと」
「……ふん」

鼻を鳴らし、魔王が瞳を閉じる。狂気に濡れた赤い光は瞼の奥に消えた。

「これで満足か?」
「ああ、上出来だな」
「早くしろ。私はそこまで悠長に出来ていないんだ」

今この男は瞳を閉じて、無抵抗のまま早くしろと俺にせがんでいる。
態度こそ尊大なままだが、この際それには目を瞑ろう。
前髪の一房を摘み上げる。額を掠めた指先に、深紅の羽がぴくりと震える。
それには気を留めずに鋏を入れる。金の髪を鋏が切る。切り裂いていく。
繰り返して繰り返して、少しずつ形を整える。

「さて――痛いか?」
「……痛く、ない」
「痛くないならもう少し激しくしてもいいか」
「お前はさっきから何を言っているんだ? 会話をしろ会話を」

悠長なのは嫌だ、と言ったそばから会話をしろ、とはまた奇妙な話だ。
しかし困った。この魔王様は色事にとことん興味が無いらしい。
それでは詰まらない。せっかくの遊びが台無しだ。
からかいの言葉も、意味を理解して貰えないならそれはただの会話の暴投にすぎない。

「そうか、会話をか……」

鋏を閉じ、軽く髪と肩とを払う。
それで相当不機嫌になったのか、閉ざしていたはずの深紅の目が俺を睨みつけていた。
今まで散々触らせていたというのに、終わったと知った瞬間にこれなのか。
鋭く輝く双眸を受け流しつつ鋏を突き返せば、魔王は無言でそれを奪い取る。
ふるふると首を振って髪を払い落とす姿に威厳の欠片も無いのが少し面白い。

「気持ち良かっただろう?」
「は?」
「体は正直だったぞ。俺の指に反応して、その羽を震わせ――」

跳躍。地面を蹴り、素早くその身を真横に飛ばす。
つい先程まで俺が居たはずの場所には、巨大な黒水晶の柱がそびえ立っていた。
そして柱の正面には、激昂している魔王の姿。

「貴様……一体私で何を想像した!?」

漸く察したのか、見開かれた瞳の奥には嫌悪と拒絶と怒りが混ざり合っている。
ここまで露骨に出ないと理解出来ないのだから困った物だ。
これではからかう余地もなく強制送還されてしまう。

「さてな。魔王を名乗る割には随分清廉ぶるじゃないか」
「五月蠅い! 質問に答えろ!」
「黙秘させてもらおう」

威嚇するように大きく開いた二対の羽。
血で染めたかのように鮮やかな深紅のそれは、形だけ見れば天使のそれだ。
闇を統べる王が持つには些か不釣り合いだと思うがね。

「散髪の時には呼べ。俺の手を受け入れる従順な魔王の姿は一興だった」

世界が書き換わる。周囲の風景が歪んだ黒から、見慣れた竹林へと変わっていく。

「貴様だけは、何があろうと絶対に呼ぶものか!」

竹林に残されたのは俺だけで、捨て台詞を吐いた魔王の姿は黒と共に四散した。
空に解ける最後の瞬間まで、あの赤い瞳をぎらぎらと輝かせながら。

「……呼ぶだろうさ」

確証はない。しかし他の誰かがいる可能性は更にない。
また今回のように突然現れて、鋏を突き付けるに決まっている。

「本当に、退屈を紛らわすには最適の魔王様だ」

当分、思い出し笑いには困らないだろう。
既に堪えきれずにいる笑みを吐き捨てながら、俺は一人待ち続ける。
空から深紅の羽根が舞い落ちる日を。





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