丁寧なラッピングが施された小さな箱が、雨宮の手のひらに乗せられた。

「えっ」

意図を計りかね、雨宮はぱちぱちと目を瞬かせる。
それを差し出してきた張本人は、ふにゃりと笑ってこう言った。

「昨日、秋ネェと一緒にクッキー作ったんだ。帰りにでも食べてよ。
 遠くからわざわざこっちに来てるんだし……お腹すくだろ?」

雨宮は現在、遠く離れた雷門の地へはるばる遠征をしてサッカーの練習に励んでいる。
練習だけならばまだしも、場合によっては異世界を旅した後に一人帰路に付き、
疲労と空腹感に苛まされながら夜行の列車に揺られるのはなかなかの苦行だった。

(でも、今日は違う。今日は、天馬の手作りクッキーがある……)

ぽーっと、顔が熱くなる。胸が暖かくなる。
女子から手作りのお菓子を手渡されるのは、これが初めてではない。
公にすれば恐らく誰か彼かから殴られるだろうが、寧ろ日常茶飯事だ。
だが、今までに貰ったどんなものよりも、このクッキー数枚の方がよっぽど尊い。
何せこれは、生まれて初めて「本当に好きな女の子」から贈られた物なのだ。
雨宮にとっては、至宝以外の何物でもない。
自然と緩む頬をそのままに、雨宮は手の中のそれを大切に大切に包み込んだ。

「……あっ、ありがと! 大事に食べるから!」

つんのめる勢いで身を乗り出し、雨宮は天馬に顔を寄せる。
少女は最初こそ驚きで目を見開いていたが、やがて花が綻ぶような甘い笑みを浮かべる。
軽く首を傾けるのが、どうにも愛おしい。

「大袈裟だなぁ。じゃ、今日も頑張って練習しよう!」
「うんっ!! 頑張るよ、超頑張るよ!!」

ぶんぶんと大手を振って駆けていく天馬の背中を見送りながら、
雨宮は頬を真っ赤に染めてラッピングされた箱をじいっと見つめる。
小さな重みが酷く心地いい。今までに受け取ったどんな贈り物よりもずっと素晴らしく思う。
どんな宝石などよりも、このお菓子の方がもっと価値があるように思えた。

「うわぁ……うわぁ……」

にやにやと頬を緩めながら、雨宮はその小箱を掲げてみる。
淡い色合いの可憐なラッピングは、普段の天馬のイメージにうまく結び付かない。
が、その意外性すらひっくるめて愛しいと思ってしまうのは惚れた弱味かなにかだろうか。
今なら、思いこみの力だけで空だって飛べるかもしれない。
酔ったような浮わついた気持ちで、ふらふらと歩いていたときだった。

「お前、あんまり浮かれない方が身のためだぞ」

唐突に聞こえた冷ややかな声に、雨宮は身をこわばらせながら振り返る。
そこでは、雷門中サッカー部のエースストライカーたる少年が、
真夜中の月のような色をした鋭い瞳をさらにきつく細め、仏頂面で仁王立ちしていた。

「……なに、剣城くん。嫉妬?」

きっと今、自分は性格の悪い歪んだ笑みを張り付かせているのだろう。
雨宮にはその自覚があった。対峙している相手が、最大の障壁である恋敵だったからだ。
しかし、剣城は怯まなかった。それどころか、寧ろ威風堂々と風を切る。

「傷が浅いうちに真相を知っておいた方が身のためだと思っただけだ」

言いながら、剣城はつかつかと雨宮のもとへ歩み寄ってくる。
冷たく鋭い彼の目から隠すようにクッキーの箱を抱え込むが、剣城が躊躇うことはなかった。

「あいつからクッキーを貰ったのは、サッカー部員全員だ」
「……は?」

剣城は無言のまま、立てた親指で自分の背後を指し示した。
誘導された通りに剣城の背面方向へ視線を向ければ、
似たような包みを手に喜びの舞を激しく繰り出すトーブの姿がある。

「……はぁ?」
「解っただろ。アイツは別にお前が好きでそれを作ってきた訳じゃなくて、単に――」
「なんだ、やっぱただの嫉妬じゃん」

はっと鼻で笑ってみせた雨宮に、剣城は目を見開いて息を呑む。
目の前の少年が何を言っているのかが理解できない。そんな顔色だった。

「馬鹿だなぁ、ちょっと考えればわかることなのにさ。
 そんなの、ボクのためだけに作ると友達とかに噂されたりして恥ずかしいから、
 カモフラージュで全員分作ってきたに決まってるじゃん!」
「お前のそのポジティブさはどこから出てくるんだ……?」

自分に優しい考察しかできないでいる雨宮に対し、剣城はジト目になりつつも素直に感服した。
それがいいか悪いかは別にして、自分にはない発想には間違いない。
境遇が悲惨過ぎたせいで、何でもかんでも前向きに捉えようとしているのだろうか。
石灰水のような濁り方をする目をそのままに、彼は顔を背けた。

「……その原理だったら、寧ろ俺が本命でお前がついでだろ」

剣城が不遜な顔で忌々しげに吐き捨てた瞬間、雨宮の目に鋭い光が宿る。
ぴしり、と、空気が固まってひび割れるような音がした。
睨み合う二人の背中には、互いの化身とミキシマックス相手のオーラすら浮かんで見える。
絡み合った視線はまさに高圧電流だ。
今この間に入ったなら、骨まで残さず焼き払われるに違いなかった。

「お前、あいつとデュエット歌ったからって良い気になるなよ」
「何それ、負け犬の遠吠え? わー、ボク初めて聞いちゃったなー」

ハッと鼻で笑いつつ肩を竦める雨宮に、剣城はより一層殺意を込めた視線を突き付けた。
しかしそれでもなお雨宮は余裕を崩さず、不敵な表情のまま憐れむように剣城を見やる。

「天馬は確かに犬好きだけどさぁ。そういう犬には見向きしないんじゃない?」
「黙れ。後から出てきた奴より俺の方が圧倒的に好感度が高いに決まってる。
 お前はこの戦いが終わったらとっとと母校へ帰れ」
「やーだよっ。そんなことより、ボク聞いちゃったよ?
 事情はともかく、剣城くんって最初は天馬のことボッコボコにしたらしいじゃん。
 最初にそんなことやらかした相手、許すだけならともかく好きになってくれるかなー」
「死ぬ死ぬ詐欺で気を引いてた奴にだけは言われる筋合いはない」

売り言葉に買い言葉、二人のキャッチボールは死球前提で投げ合いが続いている。
あそこ一帯だけが標高数千メートルの山頂のようだ。息ができない上に酷く寒い。
少し離れた場所に居た霧野は、かたかたと震えながら視線を彷徨わせていた。

「……あの二人は、何を寝ぼけたことを言っているんだろうな。なぁ、霧野?」

そう言って微笑む表情の神童は、穏やかだ。
穏やかだが、彼の背後には瘴気じみた殺意が渦巻いている。
真夏の夜に見かけたなら、きっとその場で卒倒するに違いない。
霧野に出来ることは、こくこくと超高速で頷くことぐらいだ。

「天馬と最初に二人で歌ったのだって俺なのに、好感度だって俺の方が高いだろうに、
 一年は何をそんなに言い争うようなネタがあるんだろうな……」
「そ、そう、そうだなっ、あ、あはは、あははははっ」

冷や汗を垂らしながら、霧野は幼馴染と一切目を合わさずに震えている。
一年生二人の喧騒もそこそこにはうるさいし恐ろしいのだが、
それよりもおぞましい修羅がすぐそばにあるせいでいまいち恐怖を感じない。

(お前だって天馬をボコボコにした枠に片足突っ込んでんだろ何記憶改竄してんだこの野郎!
 だいたいあのサッカー馬鹿が本命や義理を考えて菓子作ってくる訳ねえっつーの!!
 全員「秋さんが天馬にクッキー作った」おまけで配られてんだよそのぐらい察しろよ!!)

霧野が抱え込んでいるその胸の内を明かせる唯一の対象たる狩屋は、
現在のところ信助や輝らと平和的にクッキーを貪っているので、
残念ながら吐露する先がないまま墓まで持って行かなければならなくなっていた。





その数カ月後。

イナズマジャパン新メンバーとして呼び付けられた海王学園陸上部・瞬木隼人は、
手の上の微かな重みに、緩みそうになる口元を必死に押さえつけていた。

(い、いや。いくらチームメイトだからって、普通ないだろ。ないけど、でも……)

瞬木の脳裏には、これを手渡していった瞬間の天馬の笑顔が焼きついてしまっていた。
「よかったら、弟さんと一緒に食べてよ」――なんて、
汚い事なんて何も知りませんとでも言いたげな、大輪の花のように屈託のない爽やかな笑顔で、
あの少女はそう言ってこのクッキーの包みを差し出してきたのだ。

「キャプテンってほんと、解りやすいって言うか単純って言うか、
 露骨って言うか……ったく、頭ゆるい奴だよなぁ」

そう言いながら、ほわんと瞬木の周囲に点描が散る。今なら白や薄桃の花も咲き乱れていそうだ。
浅黒い肌が赤らんだのは、遠目に見れば解らなかったかもしれない。
しかし、その瞬間に剣城には確かに雷撃が走っていた。
今は出すことを禁じられている化身すら背負いながら、ゆらりと瞬木の方へ歩いて行く。
その様子を、神童ははあっと溜め息一つで流す。

「……し、神童さんは訂正しに行かないんですか?」
「ん?」

葵が恐る恐る神童の顔を覗き込みに行くと、意外なことに神童は酷く落ち着いていた。
決して負のオーラも纏わず、したことと言っても気だるげに髪を掻き上げるぐらいだ。

「訂正、って……何をだ?」
「え、えーと、言うならば、瞬木くんの妄想の訂正を」
「ああ」

神童はふっと身内限定の砕けた表情を浮かべ、まさに王子のような素振りで言う。

「どうせ天馬は最終的に俺から逃げられないんだから、今焦る必要もないと思ったんだ」
「……こういうこと私が言うのもアレだと思うんですけど、強くなりましたね」

名が示す通りの空色の瞳には暗雲が立ち込め、暗く濁って沈んでいく。
一方で、神童の表情は晴れやかだった。
自分でも、どうして今までこの思考に至っていなかったのが不思議なのだろう。
別件で悩み過ぎているせいでこちら方面に多少大雑把になれたのかもしれない。

(あの子、最終的には沖縄に帰るにしても……逃げ切れないんじゃないかしら)

幼馴染の少女に博愛主義、オブラートを取り払ってしまえば八方美人な気は確かにあったが、
それにしても天馬は面倒な男を引っかけ過ぎている。
葵は震えそうな体を必死に奮い立たせながら、曖昧な笑みを浮かべて視線を逸らした。



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