鍵を開けて入った広い玄関は、まだ瞬木の意識に馴染まない。
それでも、何日か使っていればそこそこに勝手は解ってくるものだ。
後ろ手に鍵を閉める。靴箱に手をつき、肩に掛けていた鞄を乱雑に投げ捨てる。
ぎっしり勉強道具が詰まっているエナメルバッグを投げ捨てれば、
それはどしゃりと音を立てて歪に沈んだ。

これが、瞬木隼人が手に入れた新しい日常なのだ。

噛み締めながら、運動靴を脱ぎ捨てる。
所狭しと互いの靴が折り重なり、人一人の体が漸く入るような玄関がほんの少し懐かしい。
グランドセレスタ・ギャラクシー優勝、そして銀河を救った報酬として手に入れた新しい家。
ずっと望んでいたもののはずなのに、いざ手にいれてしまうと何故だか手に余るような気がする。
手をつけるような大きな靴箱、よく先の見える開けた室内、兄弟それぞれに割り当てられた部屋。
これからは、当たり前になる。弟たちにとっては、これが普通になる。
自分の努力の成果だ。成功に対する報酬だ。それなのに、いまいち実感がない。

(ぜいたくな悩みだよなぁ)

どこか空虚な気分のまま、靴を片方ずつ脱いでいく。
鍵を開けたのと、荷物の落下音が耳に届いたのだろうか。
ばたばたと、奥から慌ただしい足音がした。

「にーちゃん! おかえり!!」
「おう」

ひょっこりと顔を出したのは下の弟だった。
気分はいまひとつ晴れないが、それを見せないように瞬の頭をわしゃわしゃと撫で付ける。
まだまだ幼い弟は、優しい兄の手を擽ったげに受け止めてふにゃりと頬を緩めた。

「ちょっと待ってろよ。着替えたら飯の準備してやるからな」

昨日今日と、体の弱い母は近くの病院に検査入院している。帰りは明日、土曜日の昼過ぎだ。
だから、明日の朝までは自分が弟たちの食事の世話をしなくてはならない。
そのために、漸く意志疎通が叶い始めたサッカー部からも早退してきている。
海王学園サッカー部の主将は強引なところはあれど身内への情は深い、まさしく船長のような男だ。
事情を話せば、早引けをするぐらいはあっさりと認めてくれた。

「にーちゃん。それなんだけどさ。今日のご飯、にーちゃんが作んなくても良くなったよ」
「は?」

何か間食でもしたのだろうか。じろじろと瞬を見つめるが、別段変わった様子はない。
自分に良く似てひねくれた所のある弟は、それ以上の詳細は口にせずににんまりと頬を緩めている。

「後で解るよ。まずは制服着替えてくれば?」

何か良くないことを考えている顔だろうな、ということだけは伝わってくる笑顔だった。




「自分の部屋」がなかった日々を、瞬木は少しずつ思い出せなくなるのだろう。
居間で制服を脱ぎ捨て、明日の勉強道具を整え、
朝から晩まで家族の誰かと顔を突き合わせて過ごす。
狭苦しいけれど、あれはあれで楽しかったと思ってしまうのはただの郷愁なのだろうか。
居間の代わりに自分の部屋で制服を脱ぎ、それをハンガーにかけ、勉強机に向かう。
それは普通の家庭ならば当たり前に持っているはずのもので、
自分にとってはついに掴むことができた幸せなことのはずなのだが、どうにもしっくりしない。
一度身に染み付いた生活レベルが急に上下すると、変な気分に陥るものだ。
制服から部屋着のTシャツとスウェットに着替えて、ふうっと溜め息を吐く。
がりがり頭を掻きながら重い足取りで広いリビングへ向かうと、
どこからともなく漂ってきた香ばしい匂いがふわりと鼻腔を擽った。

「……ん?」

フライパンの上で何かを焼いている時の、水分が飛んでじゅうじゅう熱が宿っていく音がする。
すんと鼻を啜ってみれば、これはケチャップだろうか。
食欲を掻き立てるような匂いがほんのりと香る。
しかし、昨晩および今朝の食卓に上がったのは手製の簡素なチャーハンのはずだ。
こんな香りがするはずがない。どうして今の今までこの異変に気付かなかったのか。
慌ただしくドアを開け、中の様子を探る。
世間一般の評価ともかく、自分にとっては少し広すぎるリビングに人の影はなかった。
雄太はともかく、瞬がこの家のどこかにいるのは確かだ。
ならば、と足はキッチンの方へ向かう。
近付くにつれ、瞬木家の真新しいキッチンからは三人分の賑やかな子供の声が聞こえ始めた。

「なぁなぁ、まだできないのか?」
「もうすぐだよ。あ、こらっ、危ないから! 座って待ってろってば」
「待てないからここに居るんじゃん!」

弟二人の声と、聞き慣れてはいるがここで聞こえるはずのない声がしている。
誘われるように台所を覗き込めば、そこには共に銀河を駆け抜けた少年の姿があった。

「……キャプテン?」

もうグランドセレスタ・ギャラクシーは幕を下ろしているのだから、
少年を指してこう呼ぶのは間違っているのかもしれない。
けれど、慣れに負けて瞬木はそう呟いていた。そして、少年もそれを享受していた。
青灰色の目を宝石のようにキラキラ輝かせながら、少年はフライパンを揺らしつつこちらを見る。

「あ、瞬木! お邪魔してます!」
「兄ちゃんだ! お帰り!」

ついでに、次男坊も長兄の帰りを出迎えてくれた。が、それを気にしてやることができない。
今瞬木の頭を占めているのは、雷門中のジャージ姿にエプロンを纏って台所に立っている、
本来ここにいるべきではない少年のことただ一つだけだ。

「あ、アンタここで何してんだ? 学校は? 部活はどうしたんだよ?」

平日の昼間に息子と遭遇してしまった親のような台詞を吐きながら、
瞬木はずかずかと大股でキッチンに押し入る。
いくら家が広くなったとはいえ、ここは所詮台所だ。四人が納まるには流石に無理がある。
それでも黙って見てはいられないほどの問題だった。

「うわとと、今は火を使ってるから、あんまり押さないで」

ちらりとフライパンの方を見る。
その中で踊っているのは鮮やかなオレンジに色付いた米と、グリンピースに人参、玉葱。
それらが木べらで掻き回されながら、フライパンの上で混ざりあっていく。

「……ケチャップライス?」
「あはは、ちょっと惜しいな。チキンライスだよ」

チキンライス。子供の頃、クリスマスに家族みんなで食べたような記憶をうっすら思い出す。
天馬が作っていたものを理解すると、成長期の胃は猛然と空きスペースを主張してきた。
いくら早上がりをしたとは言え、部活後の男子中学生の食欲は旺盛だ。ごくりと喉が鳴る。

「って、誤魔化されないからな! 何でアンタがここに……」
「にーちゃん、手は洗ったのかよ」

話題をもとに戻そうとした刹那に、斜め上の突っ込みが足元から入る。
弟二人は瞬木を見上げながら、にやにやと悪意の染み込んだ笑みを浮かべていた。

「な、んだよ」
「外から帰ってきたら手洗いうがいだろ? ほらほら、一緒に行こうよ兄ちゃん!」
「おい雄太、瞬! お前らどっちの味方に着いてんだよ! こら!」

ぐいぐいと弟二人に押し出されるがまま、瞬木はキッチンを追い出されてしまった。
遠ざかっていく天馬の表情はどこかホッとしているようで、それもまた瞬木は気に入らない。

「さー兄ちゃん、おてて洗いましょーねー」
「俺もお腹ペコペコだよー、にーちゃんさっさとしろよー」
「お、前ら、なああああ!」

あまり食わせてやれていないはずの弟たちは何故だか力強く育っていたようで、
必死に抵抗する瞬木を寄りきりで洗面所へと連行していったのだった。



「瞬木のお母さん、検査入院したんだろ。秋ネェから教えてもらった。
 それ聞いたら、なんか居ても立ってもいられなくなって……。
 あーもう、連絡しなかったのは悪いけどさ。いい加減機嫌直せよなぁ」

ムスッと膨れている瞬木を見やりながら、天馬はそんなことを言っていた。
軽口を叩いている間も手付きは決してぶれず、
並べられた白い皿の上に次々とチキンライスを盛り付ける。
出来立ての料理からはケチャップの風味が薫り立ち、瞬木の嗅覚をこれでもかと擽っていた。

「俺が作らなくてもいいって、このことかよ」
「えへへ」

雄太と瞬はしてやったり顔でお互いの顔を見合わせ、にーっと満足げに微笑む。
どうも、二人が木枯らし荘の秋を頼って電話をしたところ、
丁度部活が休みだった天馬が飛んできたそうだ。

「円堂監督が結婚記念日でね、奥さんが手料理作ってパーティやるんだって。
 だから、今日と……あと、明日も休みなんだ……」

チキンライスをお椀型に盛り付けながら、そんなことを言っていた。
翌日まで休みにする理由は解らなかったが、
言いながら天馬の目が氷点下まで冷えていったせいで突っ込みきれなかった。

「にしても、何でわざわざ木枯らし荘なんかに電話してんだよ……」
「にーちゃんさぁ、このテーブルの上見ておんなじこと言える?」

ぐぬ、と瞬木は口ごもった。
食卓には、いつの間にやら暖かそうなスープまで添えられてしまっている。
透き通った黄金色のスープに浮かんでいるのは、玉葱に人参。あとは肉らしき何かだ。
他の具がチキンライスと共通しているから、大体の検討は付けられた。これは鶏肉だろう。
これはちょっと、いやかなり太刀打ちできそうにない。

「あはは。俺だってそんな得意な訳じゃないよ。ちょっと焼いたり煮たりするのが限界だって」
「いや、ちょっとの仕事じゃねえよ」
「ちょっとだよ。俺、どうせ作るならお菓子の方がまだ得意だし」

その「まだ得意」でホールケーキを焼く男が松風天馬だ。
瞬木の目はほんの少しうんざりした色になった。

「キャプテンさん、そういうのいいから早く食おうよ。俺、もう腹ペコなんだってば」
「ああ、ごめんごめん。箸でもスプーンでも、好きなように食べていいよ。召し上がれ」
「はーい。いっただっきまーす!」

無意味に元気な弟の声に押されながら、瞬木はスプーンを手に取ってチキンライスを掬う。
小さな頃、あの狭い家で食べた母のチキンライスはスプーンで食べたはずだった。
それを思い出して、どうにも箸を使う気分ではなくなってしまったのだ。
ケチャップがよく絡んだ米を、玉ねぎと一緒に咀嚼する。
甘さと、しゃきりとした歯応えが口内で踊った。長らく食べていなかった味だ。

「んまー、うまいよこれ!」
「うん、うまいうまい!」

気を抜いたら、自分もそう言ってしまいそうだった。
記憶の中で輝いている母の味には流石に叶わないが、本当に美味しかったのだ。
自分が昨日久しぶりに作ったチャーハンは、どうにもべっとりとしていた。
杓文字で掬って皿へよそった瞬間に、べちゃりと潰れるように落下していったのはかなり堪えた。
母の入院中はそればかりを食べていたせいで、弟たちはその味と食感に慣れてしまっている。
だから昨晩は文句ひとつ言わずにそれをぺろりと平らげてしまったのだが、今日はどうだろう。
目を輝かせながらグリンピースを避けて米を貪る弟たちを見て、若干のさみしさを覚える。

「人間って、何か一つは取り柄があるんだな」
「もうちょっと素直に褒められないのかよ」

褒めるつもりはなかった。土俵外のところで張り合うつもりはないが、負けた気がして嫌なのだ。
口を噤むついでに、スープを一口いただくことにする。
最初の一口は野菜の甘味を感じたが、後からぴりりと辛味が走った。
体が温まり、食を進める味だった。次の一口を、自然に踏み出してしまう。

「明日の朝の分も作ってあるよ。スープもお鍋の中にあるから、温めれば大丈夫」
「……おかわりして、今晩中になくなっちゃうかも」

瞬の言葉に、思わず鋭い視線を送ってしまう。
――お前、昨日は皿に一杯で満足していたじゃねえか。
口には出さなかったが、視線にはその想いが乗っていた。
けたけたと雄太が笑いながら、まぐまぐとチキンライスを味わっている。幸せそうな顔だった。
グリンピースは相変わらず一つも食べようとしないが。

「なあなあ、天馬兄ちゃんは食わないの?」

雄太の声を聞いてやっと、瞬木は天馬の前にだけ食器類が並んでいないことに気が付いた。
更に言えば、弟たちから天馬への好感度が上がりきっていたらしい。
先程まで「キャプテンさん」と呼びつけていたはずなのに、
弟たちはいつの間にやら名前で呼ぶようになっている。

「うーん、俺は秋ネエがご飯作って待ってると思うから。だから、帰ってから……」
「え、泊まりじゃないのか?」

思わず口を挟んでしまう。てっきり、今日はこのまま泊まっていくものだと思い込んでいた。
だって、雷門中のサッカー部は明日も休みのはずなのだ。何を急いで帰ることがあるのだろう。

「うん。なにも用意してないし、洗い物が終わったら帰るよ」
「ええー、泊まってけよ! うち、天馬兄ちゃん泊めても大丈夫なぐらい広くなったんだぜ!」
「そうそう! なんだったらうちのにーちゃん床に転がしてもいいからさ!」
「おい」

微妙に悲しくなるようなことを言いながら、弟たちは必死に天馬を引き留めようとする。
そう言えば、お泊まりなんてしたこともさせたこともない。
弟たちから見れば、未知のイベントだろう。

「なぁ、あんまり遅くなる前に電話してこいよ。瞬も雄太もこんな調子だしさ」
「うーん……な、なんかごめんな」
「謝るのはこっちだろ。ほら、行ってこい行ってこい」

ずずず、とスープを飲み下しながらひらひらと手を振る。
天馬は申し訳なさそうな顔をしつつ、携帯電話を片手にたかたかとリビングから離れていった。
その後ろ姿を見ながら、雄太が神妙な顔をして言う。

「兄ちゃん、俺よくやったよな? 兄ちゃんに据え膳作ってやれたよな?」

この瞬間にスープを噴き出さなかったことを、瞬木は自分で褒めてやりたいと思った。
何がなんだか解らないでいる瞬の目の前で、大きな雷がひとつ落ちた。



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