俺と優一さんの間にあって、どうすることもできないものはいくつかある。
例えば味覚とか年の差とか身長差とかの物理的なもの。値観の違いとかの精神的なもの。
そういうのは、全部ひっくるめた上で優一さんをすきだなぁって思えるからいいのだけれど、
一つだけ、俺としてはどうしても堪えがたいものがある。

――ふたりでいられる、制限時間があることだ。

部活後から面会時間の終わりまでのほんの数時間だけが、俺と優一さんが二人でいられる時間。
実際は剣城がいたり太陽が来たり冬花さんが来たりするから、
酷いときなんか数十分ぐらいしか一緒にいられないときもある。
夕陽も落ちて、月や星が出てくるほんの手前までの僅かな時間で試合終了。
それが物足りない、って思ってるのは俺だけじゃないって思いたいんだけど。

「天馬くん。ほら、面会時間終わっちゃったよ」

それなのに、優一さんは優しく笑ってそう言うのだ。
少しだけ残念そうな口振りをしているけれど、基本的には別れのその時もふわふわ笑っている。
これが大人の余裕なんだろうか。俺にはまだ解らない。何だか鼻がつんとする。

「……帰りたくないです」
「ええっ?」

立ち上がりもせず、視線も合わせずにそう吐き捨ててはみたけれど、
拗ねる俺に対してだって優一さんは別に慌てたりしない。
ただただ穏やかな顔をして、俺を見つめているだけだ。

「そうだね」

満月みたいに、どこか冷たく怪しく輝いた金色の目は、窓の方を一瞥してからすっと細められる。
剣城に似た、でも全然違う、ひんやりとした眼差し。
視線が、俺の全身をゆっくり舐め回すようにまとわりついていく。
俺は思わず息を呑んだ。

「俺も、『今夜は帰さないよ』とか、言ってみたいなぁ」
「え……」

そう言った優一さんは、いやらしい事をしている最中のようにぎらついた目で笑う。
いや、多分これは笑ったって言うか、にやけたとかの分類に近い。
何か企んでる顔だ。冗談で言ってるわけじゃない。このひとは多分本気でそう思っている。
これは大人の色気ってやつなんだろう。俺は止まりかけの思考でそう思った。
大人って色々ずるいなぁ。本気なのに冗談みたいにできる技は、今の俺にはない。

「優一さん、今のはちょっとオヤジっぽかったです」
「傷付くからそういう方向で突っ込まないでほしいな」

このひとは結構年の話に敏感だ。
実際のところ俺から見た「十八歳」の「友達のお兄さん」は凄く大人だし、
オヤジっぽかったぐらいの感想はギャグでいいよなあと思うんだけど、
優一さん的には物凄く距離を感じるらしくってこの手の話は全力で否定してくる。

「大丈夫だよ、帰すしかないからね。ほら、遅くなりすぎる前に帰らないと駄目だよ」

諭すような口調は本当に俺を子供扱いしてるわけじゃなくて、
余裕があるように見せたいだけなんじゃないかなって思いたい。
だって俺だけ必死なんて悲しすぎる。

「解りました。今日は帰ります」
「うん、明日また――」
「でも」

何か言い掛けた優一さんを遮って、端から見たら必死すぎるだろう勢いで前のめりになる。
駄々っ子みたいだって思われてもいい。だって俺にはこうする他ないのだから。
建て前も余裕も色気もない俺に打てるのは、飾り気もないノーマルシュートだけだ。

「帰らなくてもいいときは、帰さないでくださいね」

そう言った途端、優一さんは思い切り真顔になった。
突然全部の感情がなくなったみたいに、浮かべていた笑顔ごと何もかもがこわばる。
何か変なことを言ってしまったんだろうか?
金属の針みたいに鋭くて冷たい金色の目が怖くて、目を逸らしながらおずおず引っ込む。
だけどそうするよりも早く、俺よりもずっと長くて逞しい腕が俺の片手を絡め取った。

「う、わぁ!?」

ベッドの上に半身だけ乗り上げて、片足しか地面に付いていない。
それに慌てる俺なんて気にもせず、優一さんは俺を引っ張ってぎゅうぎゅう抱き締めてくる。
体重を支えるために自然と鍛え上げられたんだろう腕はひどく頑丈で、
無茶な体勢を変えるために身を捩ることすらできなくってかなり息苦しい。
はぁっと、耳元で重苦しい吐息を感じる。

「できるんだったら、最初からそうしてるよ」

聞いたことがないぐらいに低くて、感情の色が薄い声は、まるで愚痴みたいに聞こえた。
うまく息ができない。苦しいって意味じゃなくて、単純にどきどきする。
できたとしても物凄く濃厚に優一さんの匂いがして、頭がくらくらしてしまう。
俺がぼんやりしている間に、大きな手のひらが背中やらお尻やらに回った。
感触を確かめるように揉み込まれて、俺はようやく正気に戻る。

「わ、ゆ、優一さん、それ以上はっ」
「しないよ。できないだろ、時間がないんだから」

優一さんは俺をぎゅうぎゅう抱きしめて、きわどいところを揉んで、すんすん匂いを嗅いで、
まるで変態か何かみたいに俺のことをホールドしてくる。
声色だけを聞けば怒ってるように感じちゃうけれど、本当のところはそうじゃない。
どっちかと言えば、これは焦ってるとかに近い気がする。

「え、えええ、えーと、もう面会時間過ぎてるんですよ、あの、優一さん?」
「……あと五分ぐらいなら大丈夫だから、抵抗しないでくれ」

こんなに切羽詰まった優一さんは初めて見た気がする。
本当に時間ぎりぎりだし、もう少ししたら看護師さんがご飯だって運んでくるのに、
優一さんは時間も人目も気にするのをやめちゃったらしくって、一向に俺を離そうとしない。

「優一さんっ、ほんとに、ほんとにそろそろマズいです!」
「帰りたくないって言ったのは天馬くんだろ」
「か、帰りたくはないですけど……あの、何で急にこんながっついてくるんですか……」

顔が物凄く熱くて、頭ががんがんする。あれ、これって酸欠の諸症状じゃないのかな。
俺がそろそろ落ちそうになっているのを察してくれたのかもしれない。
優一さんは漸く腕を緩めてくれて、それからぽんぽんと俺の頭をぞんざいに撫でた。
ここまで荒めに相手をされたのは初めてかもしれない。
やっと地に足がついて、呼吸も自由にできるようになった頃に、
優一さんは俺の両肩をガッと掴んで鋭い目で凄んでくる。

「天馬くん」
「は、はい」

優一さんの目は据わっていた。切羽詰まった、かなり本気の目だった。
両肩に置かれた手がぎりぎりと食いこんでくる。

「足が動くようになって、俺が自分の部屋に帰れるようになったら。
 その時は二日ぐらい帰さないから、よろしくね」

そう言った優一さんに、さっきのオヤジっぽい発言をかましていたときの記憶が重なる。
……ほんとに二日で帰してくれるんだろうか。
物足りないって思っていたのが俺の一方通行でなかったのはいいのだけれど、
これはこれで結構不穏な未来の予感を感じとってしまう。

「制限時間って、やっぱり大事な物なんですね。
 俺、その気になったらいつまでも延長しちゃう野球よりは、
 時間を区切ってバシッと終わるサッカーの方が性に合ってます」
「俺もそういうタイプだけど、ロスタイムとか延長戦って制度自体はサッカーにもあるんだよ」
「うああああんっ、やっぱり帰してください、家に帰りたいですうううう!!!」

暴れる俺の体はもう一度優一さんの腕の中に閉じ込められて、脱出できなくなってしまう。
もう優一さんを不用意に煽るのは止めよう。俺のキャパシティがもたない。
二度目の酸欠が訪れる予感に震えながら、俺はただただ冬花さんの見回りを待っていた。



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