「……は?」

雷門中サッカー部二年フォワード、倉間・典人の瞳は、
液体ヘリウムのように凍てつく色合いできつく吊り上げられていた。
その冷たく鋭い視線に射抜かれれば、逆に火傷しそうな程だ。

「今何て言いやがった」
「え、いやほら好奇心ちゅーか探究心ちゅーか素朴な疑問だよね」

ガタガタと目に見えて解るほどに激しく震える速水に対し、
意図的に空気を読まないことで寒気を無効化した浜野はあっけらかんと言い放った。

「倉間って天馬に抱き締められたらおっぱいに埋まれるんじゃね?」

無遠慮に放たれた一言に、わなわなと倉間の体が震える。

「そこまで身長小さかねえよ!!」
「怒る場所そこじゃないですよね」

怒りのポイントが逸れてくれていたおかげで、速水にも突っ込みを入れるだけの余裕が出た。
スーパーの生鮮市場コーナーで叩き売りになっている魚がするような濁った眼差しを向け、
今にも浜野につかみかかろうとしている倉間を軽く流すような動作で引っ剥がす。

「離せ! こいつは今ここで殴っとく必要がある!」
「ないですから」

小さい子供がするような癇癪ぶりに、浜野はけらけらと軽く笑うだけだった。
……松風天馬は、倉間が淡い思いを寄せている少女の名だ。
空気を読まない、もといいつだって底抜けに明るい竜巻のような無茶苦茶さと、
それに反したやたら女子力の高い趣味に年齢不相応に膨らんだ豊かな乳房を併せ持ち、
その潜在スキルを存分に活用したカウンセリングでフラグを立てまくった結果、
サッカー部内の約数名が劣情混じりに熱い視線を送るようになった少女。
倉間はその心の内を必死に隠そうとしているために、
思いの端をつついてやると簡単に声を荒げて否定し始める。
それ故に浜野から玩具にされるのだとも知らず。

「なんかそうムキになられると逆に怪しいわー、一回ぐらいやったことあるんじゃね?」
「ねえよ!?」
「だからなんでわざわざ怒らせるんですかぁー!」

速水は間延びした口調で浜野を非難する。今はただ平穏と安息が欲しい。
倉間をこれ以上おちょくりたくないのもそうだが、
うっかり神童に気付かれようものなら間違いなく血の雨が降る。剣城に関しても同様だ。
その前に、どうにか会話の流れを切り替えてしまいたい。
そんな速水の切なる願いは、虚しくも数秒待たずして無に消えた。

「俺がどうかしましたか?」
「うわあああっ!?」

まだ制服を纏ったままの天馬が、きょとんと首を傾げて立っている。
一同の話題も、何もかも知りませんとでも言いたげな無邪気な表情で、
ほんの少しだけ息を切らせた少女の表情は、年若い倉間らにとって驚くほど目に毒だった。
明らかに動揺して目を逸らす倉間と、焦りはせども慌てはしない浜野たちは、
取り繕うような笑顔を浮かべて曖昧に口を濁した。

「えー、と。何でもないです。ちょっと話してただけですよぉ」
「……なんかろくでもなさそうですね」
「それは酷くね?」

鈍い割に時折一発で最適解にたどり着くのがこの少女の恐ろしいところだろう、と、
速水たちはちらちら横目で会話しながら人知れず戦慄している。
むー、と怪しむような目がこちらを貫いてくるが、それに応えてやることはできそうにない。
つい先ほどまで、話題の中心が天馬の乳のことだったなどと、
本人に向かってどう伝えてやれと言うのだろうか。

「……俺のおっぱいがどうとか言ってたじゃないですか」

ぶはっと、速水たちは三者三様に盛大に吹き出す。
形のいい栗色の眉を寄せ、つんと唇を尖らせる少女は倉間視点でなくても愛らしい。が。

「お、まえ、聞いてっ」
「あの、先輩方の声かなり大きかったです。けっこう傷付きました」
「……っ」

瞳孔ごとかっ開いた倉間の三白眼が、殺意を伝えるために血走って浜野を睨む。
雨宮だなんだの騒ぎがあったせいで前ほどの絡みがなくなってしまったこの時期に、
こんなくだらないことでフラグが折れるなんてとてもではないが耐えられない。
空気を読まないという選択肢を剥奪された浜野に残されたのは、
たったひとつの冴えたやり方を記した切り札だけだった。

「倉間、突っ込め」
「は」
「えっ」

背中から突き飛ばされた倉間の小さな体は、真っ正面から天馬にぶち当たる。
こう見えて化身使いであり、男子相手に見劣りすることなく超次元サッカーを嗜む少女は、
小柄な倉間が誰かに押されて追突してきた程度の衝撃を微々たるものと受け止めたようだ。
素面でもファイアトルネード・ダブルドライブを打てるだけの地力を持つ天馬からすると、
このぐらいのダメージは大したものではないのだろう。
行ったり来たりを繰り返すリトマス紙のように赤から青へ顔色を変化させる速水の心配を余所に、
少女はその細腕で倉間を抱き止め、そのまま倒れることの無いように踏ん張って耐えていた。

「っ!?」

むぎゅう、と、倉間の顔の下半分を柔らかな感触が埋める。
本来の身長差なら鎖骨あたりに激突するところだが、
突き飛ばされたせいで若干前のめりになったのが良かったのだろう。
微妙に目線が下がり、鼻から下が丁度谷間にすっぽり埋まる。
視界に映るのは、真っ白なシャツとほんのり透ける薄青のストライプぐらいだ。

(ブラジャー透けて、っつーかなんか甘い、の前に、すっげー、低反発……!?)

汗の香りなのだろうか。ほんのりと甘酸っぱい匂いが嗅覚をくすぐる。
駄目だと解っているのに、思い切り息を吸い込んでしまう。
頬と乳房の間は布が最低二枚は挟まっているだろうはずなのに、それでも酷く柔らかい。
甘さと柔らかさで思考が止まる。意識が遠のきそうだ。今死ねるのならきっと悔いはない。
思考回路がショート寸前になる、の意味を、倉間は朦朧とする意識の中で理解した。
ちょうど今みたいな状況のことに違いないと確信できた。

「ちょ、浜野先輩! いきなり何するんですか!?」

幸いにも天馬は倉間がどこに埋まっているのかに気付いていないらしく、
反射で抱き留めてしまった体勢のままムッとした顔を浜野に向ける。

「あー、やっぱりちょっと高いのかー。つんのめってやっとジャストミート?」
「浜野くん!?」

この状況を淡々と検分している浜野に対し、速水は既に精神が摩耗してしまっていた。
そろそろ神童たちも来る頃だろうに、全くもって空気が払拭されないからだ。

「まーまー、謝るからさー。なんか気になったんだって。悪いねー」
「全然悪く思ってないじゃないですか! もー、俺着替えてきます!」

天馬はムッとした顔こそそのままだったが、口先だけであって長続きさせる気はないらしい。
溜め息と一緒に軽い力で倉間を押し返すと、速水たちを一瞥して踵を返した。
ほとんどされるがままになっていた倉間は、ぼんやりとした顔で中空を見つめている。

「あの、倉間くん。生きてますか」

速水の呼びかけに、しかし倉間は応えない。
いつもならばアイスピックのように研ぎ澄まされた鋭い視線を送ってくる倉間の三白眼は、
今この時だけぽうっと夢心地に細められていた。

「……顔の形に合わせて、沈んだ」
「はい?」

駄目だ完全にトリップしている――と、速水は理解した。返事の声も、思わず半音階上がる。

「俺、今なら南沢さんにも剣城にも勝てる気がする」
「気がするだけですから命を無駄にしないでくださいね。神童くんには勝てないんですね」

どこから突っ込んでいいのか解らなくなった場合、
速水は言えるだけのことをとりあえず言っておく節がある。気弱な割に図太い人種なのだ。

「ちゅーか倉間は俺に感謝するべきじゃね」
「その前に誠心誠意真心込めて天馬くんに謝るのが先ですよ」

倉間が使い物にならなくなった場合、ツッコミの負担は全て速水に向かってくるらしい。
早いところ、少なくとも部員が全員揃う頃には復活していてほしい。
そう心から願う速水は、まだ何一つ知らないでいる。
この後、倉間が一日中使い物にならないことも、
妙な気の働く狩屋がその理由を最短で導き出してしまうことも、
その結果三人まとめて菊一文字やら刹那ブーストやら天地雷鳴やらの弾幕に晒されることも。



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