「行くぞっ……奏者! マエストロッ!!」

そう叫んだのは、その化身の真の所有者たる神童拓人その人ではなかった。
グラウンドにはまだ声変わりを終えていない少年期特有の甲高さを残した声が響いている。
声に反応するように、グラウンドには紫苑のオーラを纏った化身・奏者マエストロが降臨する。
ただし、本来神童の背中に立つべきである四つ腕の化身を顕在化させたのは、
神童本人ではなく新キャプテンである松風・天馬だった。

「えへへっ、やりましたよ! キャプ……神童先輩っ!」
「凄いな……本当に出せたのか」
「はいっ!」

ぱたぱたと駆け寄ってくる天馬の頭を撫でながら、神童は驚きで目を見開いた。
困惑気味に揺れる不透明なダークブラウンの瞳には、
嬉しそうにその手を受け入れて無邪気に微笑む天馬だけが映っている。
その部分だけを切り取ってみれば何てことはないサッカー部の日常風景だが、今日は違った。
何せ天馬の背後には、見慣れた筋肉隆々の羽根付き化身ではなく、
本来であれば神童が宿していたはずの化身・奏者マエストロが鎮座しているのだ。

「化身アタッチって言うんですよ。化身マスターのおじいさんに教えてもらったんですけど、
 この力を使えば皆の化身を自由に入れ替え出来るんです!」
「それは解ったんだが……違和感が凄いな」
「はい?」

こてんと首を傾げる天馬はとても愛らしいのだが、
その背後にいる自分の化身がどうも気になってしまう。
試合のビデオでもないと真正面からマエストロの全体像を見る機会はないので尚更不思議だった。
それと同時に、新鮮だとも思う。違和感の方が大きいのだが。

「やっぱり、天馬にはペガサスアークの方がしっくりくるというか……少し、変な感じがする」
「そうですね。俺も……なんか、完全には混ざれてない気がします。
 ペガサスアークとマエストロじゃあ気の流れ方が違うっていうか」

そう言って、天馬は気恥ずかしそうに肩を竦めた。
神童は一瞬面食らった顔をしたものの、すぐに力の抜けた苦笑に変わった。
そしてそっと天馬に右手を差し出す。

「もういいだろう? ほら、そろそろ返してくれ」
「あ、はいっ! ……あれ? えっと、うー……うううううー……!?」

ぎゅっと拳を握りしめて天馬は唸り声をあげているが、どうも様子がおかしい。
焦り半分に必死で気合いを入れるものの、
何故だかマエストロは天馬の背後からピクリとも動こうとしなかった。
やがて天馬は、青灰色の目を頼りなく揺らしながら神童を見上げる。

「あ、あの、先輩……どうしましょう。マエストロ、戻せないんです」
「はあ?」
「どうしようこれ、勝手が違うのかな……はーっ! うあああああっ!!」

気合いは空回りするばかりのようだった。
天馬がどれだけ声を張り上げても、化身はずっと天馬の背後に在り続ける。
つい先ほどまでは仲睦まじげにしていた天馬と神童は、今や完全に困惑した様子だった。
特に何ができるわけでもなく、ぼんやりとマエストロを見上げている。

「……こうなったら、時間切れになるのを待つしかないんじゃないか?」
「んー……でもそれ、神童先輩にも迷惑ですよね」
「いや、俺より天馬の方が困るだろう?」

神童は目を伏せつつ、視線をグラウンド全体に走らせる。
そして、何かに気づいたようにその目を見開いた。

「……俺がペガサスアークを付けても二の舞だな。
 錦か信助か剣城に来てもらうか。それでマエストロを消し飛ばせば早い」

積極的にマエストロをかき消すことを提案する神童に、天馬が面食らう。

「え、ちょ、ちょっと待って下さい! い……いいんですか? 自分の化身ですよね?」
「そうだな。でも、それが俺の化身だろうがなんだろうが、
 天馬の意志に反してに張り付いている害虫は一分一秒でも早く引き剥がさないと駄目だろ?」
「自分の! 化身ですよね!?」

迷いも葛藤も何もない、嫌な方向に吹っ切れた澄んだ瞳が天馬に向けられる。
間違ったことなど一切していないとでも言いたげに微笑む神童が今は素直におぞましかった。

「大丈夫です! 俺は大丈夫ですから、時間切れを待ちましょう! そのうち消えます!」
「いいのか? ほら、そこに丁度剣城が――」
「剣城がリアクションに困りますから! 既に困ってますから!
 ほら時間切れを待ちましょう何が何でも待ちましょう神童先輩!!」
「あ、天馬っ!?」

これ以上話を聞いていると本当に化身が消し飛ばされる。
天馬は全力で無人のゴールへとシュートを何度も叩きこみ、
マエストロを顕在化させ続けられない程度に無理矢理力を消費した。

単調作業をこなすことでマエストロはどうにか消え、天馬も事なきを得たが、
暫くの間化身アタッチ禁止令がサッカー部内に敢行されることになった。
もともと天馬以外それほど興味のない技術であったし、
その天馬が万一他人の化身を装着したまま外せない事態に陥った場合、
神童が躊躇いなく化身を消滅させることを選ぶのが解ったからだ。

(このひと、何で絶妙に周りが見えてないのに神のタクトとかいう技が使えるんだろう。
 好きなこととできることとは違うって前に言ってたけど、
 チームをコントロールすることと周りを見ることも違うのかな)

そう悩む天馬は、神童の視界が濁りきっているせいで、
ここ最近神のタクトの始動や指示先云々がほぼ自分基準になっていることに全く気付いていない。



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