「てーんまっ、王子様が玄関前でお待ちだよ?」

一年女子マネージャー・空野葵が落とした爆弾に、部内殆どの人間の動きが止まる。
今この場で正気を保っているのは葵を始めとしたマネージャー陣と、
これといって天馬に恋愛感情は持っていない一年男子や錦ぐらいだ。

「ああ、例の先輩? あの人もマメだよねー」
「週末はいっつもですよね」

狩屋と影山はその目に宿る好奇心を隠していない。
例の"王子様"とは全く面識がないとは言え、天馬のことはよく見知っている。
女にしておくには勿体無いほど雄々しい、さばさばした明るさを持つ天馬が、
彼の前では一転してただの少女に戻るのが二人にとっては酷く面白いのだ。

「あ、あおっ、葵いいいっ! だから別に王子様とか、そういうのやめてよ!」
「いいじゃん本当のことなんだし。ほらほら、私信助と先に帰っててあげるから」
「そういう気の遣い方とかいらないからあああっ!!」

真っ赤になりながら、ぷるぷる震えて葵を責めたてる天馬の姿は、
フィールドでボールを一身に追いかける彼女の背中には全く重ならない。
今目の前にいるのは化身使いでも何でもない、単なる中学一年生の女の子だ。
信助も同じことを思っているのか、狩屋たち二人の間に挟まるとくすくす笑い出した。

「変なのー。天馬も女の子なんだねえ」
「き、聞こえちゃいますよ!」
「それ、輝くんも本音ではそう思ってるってことでいいの?」
「狩屋くんんんっ!?」

男子と女子、一年生たちがきゃっきゃと楽しそうにはしゃぐ中、
一人だけその輪に入り込めない少年が居た。
――剣城・京介。
彼は元シードだった。今でこそサッカー部になくてはならない存在だが、
もともとチーム内に走らせた亀裂が深かったせいもあって基本的に孤立している。
天馬かキャプテンである神童、もしくは監督が話かけでもしない限り、
部内外を問わず一人で佇んでいることが多い。
そして今もそうだった。ただただ、唇を噛んで天馬の背中を見据えていた。

「……いつものことですけど、早速剣城くんが荒れてますよね」
「いい加減諦めればいいのにねえ」
「んー、僕は剣城に頑張って欲しかったけどなー。でもそろそろ諦め時だよね」

一年男子がこそこそと円陣を組みながら秘密会議をする横で、
剣城はぎゅっと拳をつくって両の手を握りしめる。
手のひらの肉に爪が食い込むことも厭わなかった。
目の前の現実を認めたくない。その思いだけでいっぱいだった。
しかし、剣城にとっては非常な現実が容赦なく牙を剥いてくる。

「まだ騒いでたのかよ、天馬」
「ひううっ!?」

勝手知ったる素振りでブリーフィングルームに侵入してきた他校生が、
ぎゃあぎゃあ暴れ回る少女を背後から抱き寄せる。
瞬間、殺意の波が部屋の隅から押し寄せたのに気付いたのは二年男子の一部だけだ。
矛先に立つのは、狩屋と影山を除いた全員にとって馴染み深い一人の男。

「待つのは嫌いじゃないが、焦らされるのも好きじゃないんだけど?」
「やああああっ、耳元で喋るのは駄目です離して下さい南沢先輩いいいいい!!」

顔を可哀想になるぐらいに真っ赤に染め上げて、天馬はぶんぶん首を振る。
その抵抗も何もかも、南沢の腕は抱きとめて抑え込んでしまうのだが。

「うちの一年に何手出してんだよ部外者!!」
「関係者だから問題ないな」

正論と見せかけて実のところ私怨を振りかざすだけの倉間を軽くかわしながら、
南沢は天馬の頬に自分のそれを軽く擦り寄せた。
色恋沙汰には相当疎いものの、美形の顔が超至近距離にあれば、
流石の松風天馬でも羞恥やときめきを覚えはするらしい。

「せ、せんぱ、顔、近っ……」

頬を夕日よりも赤く染め上げた天馬の耳に、南沢はわざと音を立ててキスを落とす。

「今さらだろ」
「だから耳元は! 耳元はあああああ!!」
「いいからとっとと帰れこのエロテロリスト!!」

剣城が怒りにまかせて全力で速水のロッカーを蹴り潰していることなど、
蹴り飛ばされた当の本人ですら見なかったことにしている。
部屋の隅から垂れ流しの殺意には気付かない狩屋たち一年生は
天馬が南沢に遊ばれる様を半笑いで見守っているだけだし、
殺意に気付いている二年生男子一同は剣城如きに構っている余裕がない。
洒落にならない量の悪意と恨み辛みが、部室隅から常に押し寄せてくるのだ。
倉間のように解りやすく当たり散らしてくれた方がまだ扱いやすい。

「……俺の天馬が、俺の、俺だけの……っ」
「あ、今日豆腐買って帰らないと! じゃ、みんなお先!!」

耳を塞ぎたくなるような呪詛の言葉を聞いていたくないのと、
残っていると爆発物処理班扱いされてしまう霧野は我先に部室を飛び出していく。
幼馴染みという肩書きを持っているせいで、不用意に部室に残ろうものなら、
それだけであの目に光がない悪魔的な何かの相手を押しつけられるのは確実なのだ。
全力で御免被りたい。一心にそう思い、霧野は廊下を駆け抜ける。

「ちょいちょいちょいそれはずるいんじゃね! 俺らも今日は釣り行こうぜ速水!」
「はいもう是非行きます今日は丁度そんな気分でしたお先に失礼します!!」

顔面蒼白で飛び出していく二年生男子を横目に、
三年男子とそれに混じった錦はぼんやりと南沢の変貌ぶりを見据えていた。

「あん人はああいう人じゃったっけのう」
「恋は人を変えるっていうよな」
「変え過ぎだど。毒が抜けてかえって気持ち悪いど」
「はっきり言うな」

そんな事を云いながらも、四人の手は帰り支度を止めない。
危険物以外の何物でもないあのカップル周辺の空気は根本的に面倒臭いのだ。
ストレートでかつ大胆な南沢に天馬が翻弄されるたび、
殺意とこじらせたツンデレが絡みあって見事な不協和音を奏でる。
頭と胃と胸が苦しくなって仕方ない。

「あの人って前からああだったの?」
「ううん全然。寧ろ天馬も信助も嫌われてたわよねー」
「僕らとは真っ向から対立しちゃったしね。
 まあ、試合のあとからは知っての通りずっとあんな感じだけど」

まるで花を愛でるように天馬を見つめて可愛がって愛を囁いて、
どこまでも甘ったるく砂糖を吐く勢いで彼女に接する南沢の姿は、
どうにも葵や信助の語る「以前の南沢篤志」には全く重ならない。
狩屋と影山は目を見合わせて、ちいさく首を傾げる。

「違う、アレはそのアレだ、天馬は鈍いしバカだしアホだから解ってないだけで、
 完全に南沢さんに遊ばれてんだよ見りゃわかるだろ」

怒りに震える倉間の背中は見ているだけで笑いがこみあげてきたが、
「先輩が負け惜しみを言ってるのは見れば解ります」と言い返しはしなかった。
本来は北アメリカ大陸の砂漠部にしか生息しないであろう毒蛇を嗾けられるのは
狩屋にとっても本意ではないどころか他意すぎる。
だから曖昧に笑って、「そーですね」と適当な返事をしておいた。
葵と信助が倉間に向ける目すら今は生温かい。

「ああ、そうだな。天馬に会うまでは本気になった事なんてなかったな」
「はい?」

抱きしめていた腕の拘束を離す。
代わりに南沢は天馬の正面に回って、恭しく手を取ると――そこに一つキスを落とす。

「みなみさわせんぱいいいっ!?」
「俺がサッカーに向き合えたのも、何かに本気になれたのも、全部天馬のお陰だ」
「恥ずかしいです恥ずかしいです葵が信助が狩屋が輝が倉間先輩が見てますっ」

ぶんぶんと手を激しく上下に振って離れようとする天馬に対し、
南沢は柔らかく笑って金色で縁取られたチョコレート色の目を優しく細めるだけだ。

「俺の初恋はお前だよ、天馬」
「うえ、あ、う……うわあああああっ」

恥じらいも躊躇いもなく落とされる口説き文句に、一年生は剣城を除いて嘆息した。
見ているだけでも恥ずかしくなったらしい狩屋と影山が、頬を紅潮させている。
信助と葵に至っては思わず拍手までしていた。美形のやることは何でも様になった。

「だ、だからうちの一年に手出してんじゃねえよこのスケコマシ!!」
「はいはい負け犬の遠吠えはあと30cm背が伸びてからな。あ、これじゃ一生無理か」
「あんただってそこまで身長高くねえんだから威張んなよ!!?」

倉間の攻撃を避けるので南沢が手いっぱいになったことにより、
ようやく天馬に自由が戻ってくる――とは言え、その場に崩れ落ちてしまうのだが。
葵はくすくす笑いながら、地に伏せた幼馴染を回収に出た。

「天馬、女の子みたい」
「お、女の子だもん」
「知ってる。いいなー、イケメンで年上の彼氏」
「……そ、そういうんじゃないからね!?」

天馬はそう言うが、狩屋たちから二人は見ればどう見てもバカップルだ。
二人が付き合っていないと信じているのは当人を除くと、
もうこの部内でも三人しか残っていないだろう。
――そろそろ引導を渡してやるべきか。面白半分で、狩屋は口を開く。

「とか何とか言っちゃってるけどさー。
 実際、もうそこの先輩にヤられちゃってんでしょ?」

ぶわっと殺意が濃厚になった気もしたが、どうせこのあととどめが刺されるのだ。
構いはしない。その瞬間を思って、狩屋はにやにやと口角をあげる。
ぴたりと倉間が動きを止め、ロッカーを蹴りつける轟音が止んだのが合図だった。

「か、狩屋っ、な、なんでそれっ……」
「え? マジで最後まで手出されちゃったの?
 うっわ、天馬くん見かけによらず超進んでるんだねー」
「ちょ、ちょっと天馬、ほんとに? ほんとにしちゃったの?」
「……か、カマかけたなあああ!?」

殺意が霧散し、ロッカーの方から一際大きな爆音がして、倉間が膝を突く。
何が起きたのか、信助と影山だけが理解できないままだ。
好奇心と天馬への嗜虐心を振りかざしながらにやにや問い詰める葵と狩屋を、
天馬は耳まで赤く染めたままばしばしとひっぱたいていた。
その背後から、もう一度彼の手が伸びてくる。

「天馬」
「ひきゃううううっ!?」

珍獣のような悲鳴を上げる天馬を姫抱きにして、南沢は一年生一同を見まわす。
いつしか南沢の肩には天馬の分の荷物まで抱えられていた。

「じゃあこれ、連れて帰るから」

自分の物だと宣言するような口ぶりと態度で、南沢はそう言ってのけた。

「はい、どうぞどうぞごゆっくりー」
「ま、待って、葵、葵お願い見捨てないで、狩屋、この際狩屋でいいから!
 心臓足りない、死ぬ、俺死んじゃう、死んじゃうからあああああ!!」

遠ざかっていく救急車のサイレンの音がだんだん変わっていくように、
抱え上げられた天馬が遠くなるにつれて悲鳴の色も変わる。
遠くなる二人の姿を見守った後、葵は清々しい笑顔で残りの男子に向き直った。

「じゃ、信助、狩屋、輝! 私たちも帰ろっか!」
「そうだねっ! 早く帰ろう!」
「あ、戸締りとか大丈夫ですかね?」
「大丈夫大丈夫、そういうのやってくれそうな人が残ってるから」

狩屋たちはあっけらかんと笑ってブリーフィングルームを後にする。
三人ほど可哀想な少年が残された空間の隅で、
目から全ての希望と生気と輝きを失った神童が呟いた。

「……月山国光と雷門間の電車、止めよう」
「南沢さんが向こうに帰ってからな」

倉間が止めないのなら、雷門中サッカー部にはもう有効なブレーキなど存在しない。
最早原形を留めていないロッカーを前にひとり立ちつくす剣城も小さく頷いた。
神童の目に、恐らく光は戻ってこない。



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