雨が降り出したのは、部活が終わって、倉間先輩と二人っきりで帰ってる途中のことだった。
空の色は夕暮れには程遠い、夜の闇の方がまだ近いような濁った灰色だ。
前触れのなかった雨に、俺も倉間先輩も顔を見合わせて足を止める。

「お前、傘持ってるか?」

持ってるように見えますか、と聞き返したら真顔で首を横に振られた。
それもどうかと思うけど、実際持ってないからしょうがないよね。
今はまだ河川敷を通り過ぎたあたりで、倉間先輩の家にはちょっと遠い。

「先輩、木枯らし荘寄ってってください。ここからならすぐですから」
「……悪い」

鞄を持ち上げて頭の上へ。今日は歴史と英語があったから滅茶苦茶重いけど、この際仕方ない。
地面に水溜まりができあがらないうちに、俺たちは帰路を駆け抜けた。
進む度に強くなる雨足は、雨宿りなんて悠長なことは言ってられないぐらい強く地面を叩く。

(木枯らし荘着いたら、倉間先輩に傘貸して……って感じかな)

いつもだったらここでお別れする曲がり角を過ぎて、倉間先輩が俺の後を追いかけてくる。
それはちょっとだけ、雨に感謝してもいいかなって思った。

「天馬!」

あともう少しで木枯らし荘、ってところで、先の方から俺を呼ぶ声がする。
聞き慣れた優しい声に、鞄をずらして視界を確保したら、そこには傘を差した秋姉が立っていた。

「秋姉っ」
「今日傘持っていってなかったでしょ? だから迎えに出てみたんだけど……」

見れば、秋姉の手にはもう一本、俺の青い傘がある。優しい従姉妹って最高だと思った。
ちょうどいいや。この傘を先輩に渡して、俺は秋姉の傘に入れてもらおう。

「あら、お友達?」
「先輩! ちょうど良かった、秋姉、その傘倉間先輩に――」
「大変!」

秋姉はぐしゃぐしゃに濡れた俺の手をぐいっと引っ張る。え、俺まだ何も言ってないけど。

「ほら、早く入って入って! クラマくん、かしら? 貴方も一緒に!」
「え、だからその傘……」
「はい」

傘渡せばいいんじゃないのかなって思ったけど、秋姉は話聞いてないし、
倉間先輩もそれでいいみたいだったから、俺はもう何も言わなかった。
うちに来てくれる方が嬉しいなぁ、って思ったし。
玄関に入ったら、首を振って滴る水を払う。鞄で隠してても、濡れるには濡れていた。
それに対して、倉間先輩は黙って突っ立ってるままだ。

(……あ、首は振れないか)

俺だけならいいけど、今は秋姉がいる。
――髪を振り乱したりなんかしたら、前髪の下の異貌が晒されるかもしれない。
だから、多少気持ち悪くても突っ立ってるしかないんだろう。

「先輩、俺の部屋、階段上がってすぐのところです。
 タオルとか用意してすぐ行くんで、待っててください」
「ん、悪いな」

俺の推測はそれなりに当たってたらしい。
倉間先輩は濡れた前髪の先、少しだけちらつく素肌を隠すように左手をかざしていた。
水を吸ってまとまる髪の束はいつもみたいなふわっとした広がりを失って、
よく目を凝らせばその下にくすんだ青灰色の鱗が見えてしまいそうになっている。
……ドライヤーも借りて持っていった方がいいかな。
でも、そこまでしたら逆に大袈裟で怪しいよね。
いろいろ考えた結果、俺はタオルと秋姉が出してくれた缶ジュースを持って、
ばたばた慌ただしく階段を駆け上がって自分の部屋に向かった。
ドアを開ける前には深呼吸。
だってほら、今からは二人っきりな訳だし。ここは気合い入れていきたいじゃん。

「く、倉間さんっ! タオル持ってきました!」

特別って意味を込めてあのひとを呼んで、ドアを開け放ち――俺は硬直した。
部屋の中では、倉間さんが俺の枕を盾のように構えてベッドの上に立ち尽くしていたからだ。

「……え、何やってんですか?」
「見りゃ解るだろ! それだよ、そいつ!!」

俺はすっかり気が抜けちゃったけど、倉間さんは半狂乱で叫んでいた。
そいつって何だ、と視線を室内全体に戻して、すぐに納得した。
ベッドの下で「伏せ」をしているサスケを、倉間さんは明らかに警戒している。

「あ、部屋入れてもらってたんだ」

雨降ってるからなぁ、と思いながら後ろ手にドアを閉める。

「何ちんたらやってんだよ! 早く追い出せ!」
「え?」

威嚇するように、倉間さんは白対黒が9:1ぐらいの大きな目で俺たちをキッと睨む。
犬、苦手なのかな。それにしたって追い出せは酷いと思う。

「犬、嫌いですか?」

苦手かって聞いたら怒られそうな気がしたから、嫌いかを聞くことにした。
倉間さんはそういうどうでもいい違いにもプライドを傷つけちゃうひとだ。
床にぺったり座り込んで、タオルとジュースを置いてからサスケを撫でる。
犬ってもふもふだし、ふわふわだし、あったかくってかわいいのに、何が嫌なんだろう。

「嫌いとか苦手とかじゃなくて本能的にダメなんだよ!」

ああ、そういえば沖縄に居たときはハブ避けにサスケ連れて歩いたっけなぁ。
刺激しすぎて逆に噛まれる時もあるけど、物音でハブの方からこっちを避けてくれるんだよね。
ちょっとだけノスタルジックな気分に浸りながら、立ち上がって倉間さんにもタオルを手渡す。
倉間さんは奪い取るみたいにタオルをもぎ取って、また俺たちから距離を置いた。
足元でじゃれてくるサスケには悪意なんかな……こら、鼻で膝かっくんするんじゃない。
やっぱり悪意あるのかなサスケ。それを倉間さんだけが感知してるとか。まさかね。

「本能的にダメって……」
「テレビとか本なら平気。実物は無理」

それって普通のひとだったら犬じゃなくて寧ろ蛇に抱く意識だよなあ。
言わないけどさ。自分でも、「あ、これひどいこと考えてる」って思ったし。

「じゃあ、慣れましょうよ」

だから代わりにそう言って、タオルを握り締める手をくいくい軽く引っ張った。
瞬間、倉間さんの目は直角二等辺三角形みたいに鋭くなる。

「できるか!」
「できますよ。サスケは怖くないですから」
「俺はお前みたいに鉄の心臓に毛生やしてる訳じゃねえんだよ!」
「どういう意味ですか!?」

ちょっとその発言は聞き捨てならない。ムッとして言い返す。
だってこれ、俺が怖いものなしのバカみたいじゃん。
でも、返ってきたのは俺が思ってたのとは違う方向の叫びだった。

「鱗見ようが何しようが驚かない奴の心臓に毛生えてねえ訳ないだろ!」

……これ、どう返したもんだろう。
勢いで出た本音なんだろうな。言ってから「あっ」て顔してるし。

「倉間さん、怒らないですか?」
「怒るようなこと言うのかよ」
「ちょっと恥ずかしいことは言います」
「……怒らないよう善処はしてやる」

唯でさえ大きな黒壇色の三白眼が、もっとずっと大きく開く。
俺はもう一回倉間さんに手を伸ばして、まだ少し濡れてる学ランの裾をぎゅっと強く握りしめた。
これは俺も最近わかったから、口に出すのは初めてのこと。

「鱗見ても平気なのは、俺が倉間さんのことが好きだからですよ」

だって沖縄に居た頃はハブ避けにサスケと一緒に歩いたりしてたし、
やっぱり蛇そのものは怖いしできることならご対面したくはない。
でも、倉間さんの鱗は綺麗だなあとかかっこいいなあとか思うくらいで、
怖いとか気持ち悪いとか、そんなこと思ったことない。
それって多分、ううん絶対、いわゆる愛の力だよ。

「な、お、お前っ……」
「だから恥ずかしいこと言うって、言ったじゃないですか!
 俺も恥ずかしいんですから、怒るの含めて蒸し返すのダメですからね!?」

睨まれてるのが解ってるから、俺も視線を外すし速攻で手を離す。
でも、その手は引く前に何かに思いっきり掴まれる。
それが何かって、この状況で考えられるのは一つしかない。
え、サスケ? もう飽きて床で転がってるみたいだけどそれがどうかしたの。

「く、倉間さん。もう俺心臓に毛生えてていいですから、この話終わりにしましょう」
「お前が振ってきた話だろ」
「もともとは犬の話でした!」

ふわりと、頭上に真っ白な何かが被さってくる。
ああ、これさっき倉間さんに渡したタオルだ。
そしてまるで教室のカーテンに隠れて遊んでるときみたいに、
俺と倉間さんはたった一枚のタオル生地によってこの部屋の中から切り離される。

「倉間、さん」

ベッドの上に立ってるから、いつもと違って見上げる形になった。
俺がちょっと困ってることなんか気にしないで、倉間さんはにんまり口角を上げる。
あ、なんか悪い顔してる――そんなことぐらいしか考える時間はなかった。
唇にふにゅって柔らかい圧力。それと、ほんのり暖かな熱。

「……えっ、な、うあああっ、ちょっ」

闘牛士がマントを翻すみたいな手つきで、倉間さんはタオルを取り払う。

「犬には見えないようにしてやっただろ」

こんなものなくたって見てないですよそこで転がってるんだから!
口に出して叫べるだけの余裕はなかった。もう、今すぐにでも崩れ落ちそうだったから。

「このぐらいで動揺してんなら、やっぱお前の心臓って普通なんだろうな」
「傘貸しますから今すぐ帰って下さい!!」
「それが先輩に対する態度かよ。雨宿りぐらいさせろ」

妙に気分よさそうに、倉間さんは俺のベッドを座り込みで占拠する。
そういう貴方の方がよっぽど鉄でできてる心臓してます。
さっきまでは感謝してた雨への恨み事と一緒に、そんなことを考えた。



inserted by FC2 system