天馬は死んだ魚の目になってベンチからフィールドを眺めていた。
ジャージには一応着替えているが、やることも見当たらないので本当に座っているだけだ。
別に負傷している訳でも具合が悪い訳でもないが、天馬はベンチに縛り付けられていた。
何故なら今の天馬にはサッカーをする資格がないからだ。

「よし、次! 各ポジションに別れてパス練習だ!」

そう叫ぶ我らがキャプテン、神童拓人の澄んだ声がフィールド一面に響く。
軽くターンしてみせた瞬間に、胸元が大きく揺れたのが見えた。

(これ何の夢だ、何の悪夢なんだ)

天馬は心の中でだけ悲鳴をあげてがしがしと頭をかきむしった。
何故かは解らないが、朝起きたらこうだった。秋姉は秋兄になっていて、葵は学ランだった。
信助はスカートを翻して駆け回っていたし、ノックなしでロッカーに入ったら倉間に殴られた。
現れた円堂監督の胸には西瓜か何かを詰めたような巨大な膨らみがぶら下がっていた。
サッカー部は冠に「女子」と付き、天馬はただのマネージャーだった。
要するに、自分以外の性別が全て反転していたのだ。

(夢には願望が出るって言うけど、この場合俺は何を望んでいるんだろう)

ぱっと見た際に一番分かりやすい違いは、南沢がフィールドにいる事だった。
自分が雷門イレブンとして数えられていない代わりに、南沢が辞めずに残っている。
ただ、その南沢はユニフォームのイナズママークが歪む程胸が膨らんでいるが。

(南沢先輩に辞めて欲しくなかったのは確かだけど)

わざわざ「巨乳美女になって欲しい」とまで望んだ覚えはない。
天馬は異常事態に頭がついていかず、濁るに濁りきった目線を南沢に送っていた。
しかしながら、余りにも注視し過ぎていたのだろうか。
その南沢から見つめ返されている事に気付くまでに、天馬はワンテンポ遅れをとっていた。
目と目が合う。視線が絡み合う。その瞬間に、南沢がばちんとウィンクした。

(うわああああウィンクされた、南沢先輩だって解ってるのに、南沢先輩だって知ってるのに!)

それでも天馬の鼓動は早鐘を打ち、顔は赤くなり、呼吸は苦しくなった。
もともとの南沢も色気のある美形だったが、今の彼……女が纏うそれはより一層破壊力を増し、
健康な男子中学生の思考回路を熱で焼き切ろうと迫ってくる。
一度そう意識すると止まらなくなってしまって、天馬はぷいと目を逸らした。
そして逸らした瞬間に後悔する。

「え」

顔面に飛んでくるのは、漆黒色の尾を引くサッカーボール。
先程までであれば後頭部に当たるのだったであろうそれは勢い良く天馬の顔面にめり込んだ。
踏みとどまることなどできず、思い切り地面へと吹っ飛ばされながら天馬は思う。

(痛いってことは夢じゃな――いや違う最近の夢だから痛覚もあるんだ、多分)

夢に最近も今も関係はない。が、そう思いたくて仕方がなかった。

「天馬!?」

男女の悲鳴が重なる。男の声は葵で、女の声は今の今までこちらを見つめていた南沢だろう。
じゃあ犯人はこの二人以外の誰かで――そう思いながら上体を起こして、天馬は硬直した。
視線の先には、雪のように白い肌とは対照的な闇色の髪をポニーテールに束ねた少女。

「てめえ」

やたらドスのきいた声色に天馬は確信する。

(剣城だ! これ剣城だ、剣城もちゃんと居るんだこの世界!!)

ただし例に漏れず剣城もまた少女である。
神童や南沢に比べればかなり控えめではあるが、その胸元はうっすら膨らんでいた。
体つきもどこか柔らかそうに丸みを帯びている。すらりと伸びた足もそうだ。
そこまで確認してから、(どこを見ているんだよ俺は)と天馬は自己嫌悪に浸った。

「おい、今もさっきもどこ見てやがった」

当然視線の位置は察知され、冷たい眼差しが怒りによってより鋭く美しく光を宿す。
ひくひく震える眉毛を見て、「あ、これやばいな」と天馬は他人事のように考えた。
夢だと思いたくて仕方がないので、リアクションがどれもこれも水槽越しのような状況だ。
だから天馬は気付かない。
それと間逆、全く光がないダークブラウンの目をした少女が近づいていることに。
一触即発の雰囲気を醸し出す二人には、横から近付いてくるもう一人に気付けなかった。

「天馬」

気付いたのは、天馬の後頭部が柔らかな何かに埋まってからだ。
むぎゅ、ふにふに、その他もろもろの効果音と同時に、甘い香りが漂う。
天馬が目線を上に上げると、つや消し処理されたビターチョコレート色の目とかち合った。

「怪我はないか?」

先程から遠巻きには見ていた神童の顔がかなり近いところにある。
そこで漸く神童に背後から抱きすくめられ、乳に後頭部が埋まっているのだと知った。

「うわああああっ!?」

慌てて立ち上がろうとするが両腕でがっちりとホールドされているので身動きができない。
寧ろ強く強く引き寄せられてしまい、より密着する形になる。
ふわふわとした胸が自分の後頭部に押しつぶされて、形を歪める。

「あ、ああああのそのっ、キャプテン」

(このひと天然だから解ってないんじゃないかな)と言う思いを込めて見上げてみると、
うっとり陶酔しきった目で見つめ返され、愛しげに腕を回された。

「怪我がないなら良かった」
「うあ、あのっ」
「天馬」

神童の様子が異常なので、天馬は「解っていて乳を押し付けている」のだと悟る。
目眩がした。悪意のない悪戯ほど厄介なものはない。

(誰も止めないってことは、この世界の俺はキャプテンと付き合ってたりしてたのかな)

元の俺には産まれてこの方恋愛経験なんて一度もないのに、と天馬は目を遠くする。
もう何もかもがどうでもよくなってきた。ただでさえ濁った目がさらに混濁する。
夢だ、どうせ夢なんだ。天馬は諦めに近い気分でそう考えた。

「お前は痴女か!!」
「剣城にはない武器を行使してるだけだろう」

すり、とぬいぐるみにでもするように神童が頬を寄せる。「わひゃあ」と変な声が出た。

「……キャプテンじゃないと駄目だって。キャプテンとしたいって、言ったもんな」

声の響きが必要以上に重いので、サッカーの話です、と突っ込むだけの勇気が出なかった。
寧ろ何でそんな軽率な発言を女子にしたのかが今の天馬には一番の疑問だった。完全に告白だ。
本来の世界の神童もこの発言で同じ思考に目覚めていることを理解していないので、
自分の失言にはまるで気付かずにこの世界の天馬だけを責めている。

「モテモテで困っちゃうねー、天馬」
「助けてよ! 見てないで助けてよ!?」

完全に傍観ムードの葵に助けを求めるが無駄なのも目に見えていた。
剣城と神童以外の全員が休憩ムードに入っているので、アテにできる人が誰も居ない。

(ダメだこの夢ほんとダメだ、早く醒めないと)

そう願うが目が覚める気配は全くといっていいほどない。
目を閉じても神童の胸の柔らかさを思い知るだけだ。

「……っああそうかよ、そんなに胸が大事かよ」
「え」

いつしか剣城の背後には、剣を携えた巨人が現れていた。
良かった化身は性別そのままなんだ。
あまりにも異常事態が続くので、天馬はそんなどうでもいいところにすら喜びを見出した。
だから剣城の唇が「ロストエンジェル」の形を描いて強張っても、何も思わなかった。

閃光、そして暗転。
天馬はそうして望み通りに意識を放り投げる。

「天馬、朝よ。起きなさい」

そう囁く声が耳に慣れた女性の声だったので、天馬は泣きそうなぐらいに安堵した。



「おはよう、天馬」

二回目に泣きそうになったのは、道すがら出会った信助が学ランを着ていた時だった。
非日常の後に出会う日常はその大切さを十二分に思い知らせてくる。
天馬は思わず信助の手をとり、何度かぶんぶん振って感動を噛み締める。

「天馬、どうしたの?」
「ううん、なんでもない。なんかちょっとほっとしただけなんだ」
「そっか……あ、でもそれちょっと解るかも」

信助が天馬の手を握り返し、首を傾げる。

「ぼくも今日、天馬だけ女の子になる夢見ちゃってさ。天馬が学ラン着ててほっとしたよ」
「え」
「面白かったんだよ、キャプテンと剣城が天馬の胸揉んだとか揉まないとかで喧嘩しててね」
「ごめんあんまり聞きたくない」

天馬の目は再度濁った。



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