「あれっ」

鞄を開けて硬直する天馬に最初に気付いたのは神童だった。
それはいつも見ているから、という微笑ましいような背筋が凍るような理由によるのだが、
端から見ればよく気の利く面倒見のいい先輩なので、普段から誰も咎めてはいなかった。
そもそもロッカールームに残っていたのは、日直で遅れた天馬と蘭丸、
鍵を閉めなければいけない神童だけなので、あまり疑問も持たれていない。

「どうした、天馬」
「あの、日焼け止め忘れたみたいで……今日はこのまま外出るしかないかなって」

鞄をひっくり返す勢いで掻き回す天馬を見て、神童がぱたぱたと自分のロッカーへ急ぐ。
何事かと思い動向を見守ると、同じように鞄を確認し、何かを片手にまた走り寄ってきた。
やたら嬉しそうな表情をしながら駆けてくる神童の手に見えるのは、
どこか高級感の漂う小さなボトルだった。

「俺のを使えば――」
「い、いいです大丈夫です! 気にしないでください」

「金持ちの所有物なんて利子が怖くて借りれません」という本音は隠して天馬は即答した。
以前帰り道に寄ったコンビニでとても手が出ないような高級アイスを平然と奢られたり、
果汁百パーセントのやたら高いジュースを笑顔で手渡されたのが若干トラウマになっている。
お陰さまで日焼け止め一つ借りようとする気にならない。

(可愛がってくれるのは解るし、仲良くなれたのは嬉しいんんだけど)

正直重い、というか怖い上に申し訳ない。貢がせている気分になる。
神童のかわいがり方は一部金の力が透けて見えるものがあるので、
支払い力の乏しい天馬からすれば感謝の前に萎縮対象になることがある。
今回もまたそのパターンだった。

「日焼け止め忘れたのか」

片付けをしていた蘭丸が作業を止めて二人の方へ寄る。
その手には天馬も見慣れた、その辺りのスーパーでも買えるようなごく一般的な日焼け止め。

「俺の使えば? 一回分ぐらいなら別に構わないし」

蘭丸は「いいです遠慮します」のポーズで固まっている天馬に向けて、
日焼け止めのボトルを差し出しながらあっけらかんと言い放った。

「え……あ」

はい、と返事しかけて、天馬は自分の左手が強い力で握り締められたのを悟る。

「なんで」

低い声。恐る恐る声の方を見ると、光のない目をした神童の視線が突き刺さった。
神童の目に光がないのは今に始まったことではないが、そういう次元の問題ではなく、
深海よりも底の知れない純粋な闇色の目になっていた。

「えっ」
「俺じゃないと駄目だって言っただろ」

サッカーの話ですよね、と突っ込む余裕がない。縋るように握られた手が痛い。
併せてかなり怖い。

「なのに、何で俺じゃなくて霧野のを借りるんだ」
「お前の顔が怖いのとそれが無意味に高そうだからだよ」

蘭丸はあっさりと切り捨てた。神童がかなり衝撃を受けているが事実だった。

「ほら、さっさと塗っちまえ」

神童が固まっている間に、蘭丸が日焼け止めのキャップを外す。
手を出すようジェスチャーされたので指示通り伸ばそうとして、
左手が未だに神童に握り締められていたことを思い出した。

「あ、あの、キャプテン。手、離し――」
「……れ」
「え」

顔を上げた神童がぼろぼろと泣いているのを見て、天馬も蘭丸も硬直した。

「俺っ、天馬が喜ぶかなって、天馬の笑顔が見たくて、俺、俺はっ」
「うわあああっ、泣かないでくださいキャプテン! 気持ちはありがたいんですほんと!」
「面倒な奴だなー」
「霧野先輩いいいい!!」

蘭丸のコメントを受けて、神童がさらに泣きじゃくる。
人を間に挟んでの喧嘩も虐めもしないでほしい、と天馬は今本気で苦しんでいた。
しかし面倒なのも事実である。
ただでさえ日直で遅れているのに、この騒動でさらに遅刻しているからだ。
自分一人が遅れるならまだしも、先輩を二人巻き込んでいるのはかなり問題がある。
おまけに一人は号泣している。

「もうそれそのままにして塗っちまえば?」
「いえ」

うんざり顔の蘭丸の提案を脇にどけて、天馬は両手で器を作る。
涙を拭う神童と、怪訝な表情の蘭丸の視線が重なった。

「……あの、お二人とも、俺の手にそれ出して貰っていいですか」

成分的にそう変わるものでもないだろうから、混ぜて使っても問題はないはずだ。
「どちらも借りない」という選択肢は許して貰えない気がしたので、
穏便に場を流すためにも「両方からも借りる」という結論に落ち着いた。
結果先刻の台詞が天馬の口から出ることになったのだが、それが悲劇を招く。

――カシャン。

金属室の何かが床に落下する音がして、三人は扉に目を向けた。
開いた扉の向こうには、真顔で硬直している剣城の姿と、床に転がる赤い携帯電話。

「二人で、手に、出す?」

剣城の視点からすれば、着替え途中の天馬に先輩二人が詰め寄っている図に他ならない。
空気が逆立つような感覚。それと同時に、闇が吹き上げて辺りを覆う。

「え、何で剣城、化身出し――」
「……っ部活前に何やってんだお前らはああああああああ!!」

天馬の突っ込みが完全に形を成すことはなかった。
それより早く剣城の鞄が顔面にぶん投げられ、意識を失ったからだ。



その後、剣城の攻撃は誤解によるものであると逆切れを伴う謝罪が行われたり、
「その誤解なら現実でもいい」と言いかけた神童を、
部員総出で黙らせたりしたのは割愛する。



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