「もう、馬鹿なこと言わないで。俺を置いて、どこかになんて行かないでよ」

そんな事を言って泣きじゃくる後輩の姿に、あの時の俺は何を思ったんだろう。
泣きながらあいつの腕に縋りついて、胸に顔を埋めている「それ」を、
果たして俺はどんな目で見つめていたのだろう。
きっと、羨ましいって。そんな風に見ていたんじゃないかと思う。


******


いつか見たイナズマキャラバンの女監督が源田を連れて行ったのは突然の事だった。
正確には源田だけじゃない。寺門と――成神。その三人があの女監督に連れられていった。
風の噂に聞いたところによると、他の学校の奴なんかも多数引っ張られていったらしい。
そう、俺と違って選考に呼ばれすらしなかった奴らが。
その前後の源田たちの喜びようと、辺見たちの落胆っぷりは相当に面白かった。
円堂たちから代表の座をもぎ取ってやるだのと大風呂敷を広げていた訳だが、
今俺と明日の試合に向けて最後の調整を行っているのは、赤いマントを付けたあの人だ。
つまりは――残念ながら、そういうことなんだよな。勝ったのは円堂たちだった。
まぁ、そんな話はどうでもいいんだ。今大事なのは、そう。


******


源田たちが再び帝国のグラウンドに姿を現したのは、
アジア予選が終わって、俺の正式な代表入りが決まった頃のことだった。

「入れ違いにならなくて良かった」

久しぶりに会った源田はそう言って笑っていた。内心はどうだか解らなかったが。

「本当に惜しかったんだ。あと少し、あとほんの少しだけの差だった」
「ふうん」

久しぶりに充実した日々だったんだろう。きらきらと輝く目がそれを物語っていた。
選考会に俺だけが呼ばれたあの時に比べて、ずっとずっと楽しそうだ。
それは嬉しいことだったけれど、ほんの少しだけ寂しかった。

「悔しいが、まだ諦めないさ。俺も砂木沼も監督も、全員そのつもりだ」
「ああ」
「だから、佐久間」

ブラウンアッシュの鋭い目が俺をじっと見つめて、輝く。
背筋がぞくぞくした。
フィールドを駆け抜けている時よりも激しい鼓動が全身に走っていた。

「待っててくれ。必ず追いつくから」

差し出されたその手を、おずおずと握り返す。
いつも俺の背後で俺たちのゴールを守り続けていた右手は、
俺の知らない間にもっとずっと大きくなっていて、焼けそうなくらいに熱かった。

「……楽しみにしてる」

俺に言えたのは気の利かないそんな一言ぐらいだ。悲しいかな、語彙は広くない。
だけど源田はそれで満足したようで、俺の手をぎゅっと固く握り締めていた。
ごくりと喉が鳴る。胸が早鐘みたいな音を立てていた。

「げん、だ」
「ん?」

今言えなかったら、きっと何も言えないまままたお別れだ。
それは脅迫にも似た感覚だった。焦りが正常な思考を奪って、俺から理性を剥ぎ取る。
左手を、握り合わせた手に伸ばす。まるで両手で源田の手を包み込むように。

「佐久間?」

よく解らない。
そう言わんばかりの抜けた顔をする源田の手を固く握り締めて、
俺は精一杯の勇気を振り絞り、胸に秘めていた思いを語る。

「源田。俺はずっとお前のことが」

すき、だった。
俺のその呟きは、源田に届くことなくかき消された。

「源田さぁんっ!」
「わ」

どん、と衝撃音。それと同時に源田が大きくよろめいて、俺の方に倒れそうになる。
でも完全に倒れるほど源田はヤワじゃなかった。すんでのところで踏みとどまった。
視界に入った源田の頭頂部。俺はそれを見てほんの少しだけ落胆を覚えた。
そのまま俺の方に倒れてくれれば、なんて。そんなことを考えた。
だけどそんな悠長な思考ができたのはそこまでだった。
源田が俺の手を離す。
それだけで俺の心は冷えた。できた距離に呆然とした。
置き去りにされた自分の手のひらを見て、ズキズキと胸が痛んだ。
さっきまで俺が握り締めていた源田の手が離れて、源田の視線も俺から離れて、
それは全部源田の背後にいる、衝撃音の元凶へと向けられる。

「……成神!」

なるかみ、ってなに。誰? ――答えなんて解ってるのに、理解したくなかった。

「アハハッ、すいません」
「謝るぐらいなら最初から飛び付くな!」

ツンツンした紫色の髪に、源田の指が沈む。そのままわしゃわしゃと撫でつける。
冷や水を浴びたような気分だった。頭から指先まで、一瞬で凍り付いた。
あんなの、俺にはしたことない。
源田はため息をつくぐらいで、抱き付いたままの「それ」を振り払ったりはしなかった。
ただ撫でて、形だけのお説教をしただけだった。

「……だって、源田さん不足だったから」

俺や源田に比べれば幾分かは白い腕が、オレンジ色のユニフォームごと源田を抱き寄せる。
ぎゅっとしがみつくように回されたそれも、源田は振り払わない。

「なっ」
「帝国戻ってから源田さん、ずっと咲山とか辺見の相手してるから。つまんないっス」

源田の背中に、「それ」は顔を埋めた。
俺と「それ」とは源田越しに対面している訳だから、向こうの姿は俺に見えない。
見えないけど、何をしているかはよく解った。
だってそれは、叶うのであれば俺がしてみたいことだったから。
自分に比べれば広い源田の背中に顔を埋める。頬擦りする。息を目一杯に吸い込んで。
――そんなことができるなら、俺だって。

「……後で相手してやるから」
「じゃあ、明日は練習見学ですね源田さん」
「後って夜じゃないからな!?」
「アハハッ」

源田の頬が朱に染まる。俺は蒼白になりそうだ。
距離だけは近くに居るのに全然遠い。
離された手のひらと同じで、俺だけが置き去りにされてしまった。

「お前はっ……あのな、今は佐久間が――さく、ま」

源田の顔色はリトマス試験紙みたく一瞬で赤から青へと様変わりした。
それからだらだらと冷や汗を流して、しどろもどろになりながら俺へと視線を戻す。

「すっ、すまない佐久間! これはその」
「……お前らって」
「え」

そんなに仲、良かったっけ。
言えたのはそのくらいだった。まともな声なんて出せそうになかった。
言葉に詰まった源田の代わりに俺に現実を突き付けたのは、背後の「それ」だ。
腕はあいつに回したまま、ひょっこり横から顔を出して、にっと笑って言う。

「良かったですよね、源田さん」

源田の顔はまた赤になった。
……それだけで、十分理解できた。
もう、勇気も言葉も出なかった。


******


「まさか本当にくっつくとは思わなかったよな」

休憩中にスポーツドリンクを一気飲みした辺見がそんな事を言った。
隣の咲山はうんうん頷きながら、タオルで汗を拭っている。

「成神がどうっていうより、源田が折れたのが意外だった」
「そう、それなんだよ」

俺は飲みもしないボトルを握り締めたまま、辺見たちの目線の先を追う。
寄り添う二人。
タオルを首から下げたまま、汗も拭わずにべたべたくっついたり、
突然頭を撫でたり、飲み物を奪い合ったりして、離れようとはしない。

知らない間に、源田の隣は俺じゃなくなっていた。
前なら、休憩になったらすぐに源田は俺の方に来てくれたのに、
今日はまっすぐ「それ」に向かっていった。向こうも同じだった。

「……ずっと見ててくれたから、とか何とか言ってたな」

寺門がそんなことを言った。

「まー、それは確かにそうだったけどよ」
「退院してきた辺りからはべったりだったもんなぁ、成神」

それなら俺だってずっと――とは言えなかった。
ただ唇を噛んで、立ち尽くしていただけだ。
……その間もずっとずっと、二人は離れようとしなかった。


******


「ずっと見ててくれたんだ、成神が」

源田は練習が終わってから、寺門が言った通りのことを口にした。
照れ臭そうに笑みながら――顔が赤いのは夕日のせいだからなんだよな?

「退院したあたりからだったか、やたら目につくようになって、ネオジャパンでも一緒で」

「それ」の話をするあいつの顔は幸せそうだった。
花が咲いたみたいに、なんていう形容詞を男に使う日が来るとは思わなかった。

「で、気が付いたら」
「源田」
「ん?」

話の続きを聞きたくなくて、俺は遮るようにあいつの手をとった。
源田はポカンとした顔つきで、俺のすることを見守っている。
握り締めた手は、ひどく熱い。緊張した俺の手が冷え切っていただけかもしれないが。

「佐久間」
「なぁ源田、お前今、楽しいか」
「……ああ」

何を言っているんだこいつは、とでも言いたそうな顔をして、源田が首を傾げる。

なぁ、何で楽しいんだよ。

だってお前の傍に俺は居ないじゃないか。なのに、どうしてお前は楽しいんだよ。
サッカーが楽しいから?
それともネオジャパンが楽しいから?
どちらも違うんだろう?

「成神が居るから?」

源田は返事をしなかった。ただ口を開けて、丸くした目で俺を見るだけだ。
次に出るのだろう言葉を、俺は聞きたくなかった。
だから俺は目を閉じて、源田の唇に自分のそれを押し当てる。
初めて触れたその場所は柔らかくてでも少しかさついていて、心を抉った。

「源田、俺だってお前のことが……」

好きだったんだ――と。そう言って、俺は逃げた。
今度は俺が源田を置き去りにする番だった。返事を聞く勇気は、なかった。


******


羨ましかった。
素直に源田を求めて、どこにも行かないでと、傍にいてと縋り付けるのが。
何も言わないで引っ張るだけの俺と違って、ちゃんと自分の気持ちを伝えられるのが。
だって振り回すだけ振り回しておいて、俺は源田の顔一つ見れやしない。

「佐久間!」

追い掛けてくる源田から必死で逃げた。
知らないうちに俺は泣いていた。涙は見せたくなかった。
泣いている俺を見たら、きっと源田は困るんだ。そして俺はその迷いにつけ込むだろう。
だから、逃げた。

「佐久間、少しは俺の話を――」
「聞かない! 聞きたくない!」
「いいから、聞け!」

源田が俺の手を引いた。
つなぎ止められた右手が熱い。もう逃げられそうにはなかった。

「俺にはお前が何を考えているのかがさっぱり解らない。突然どうしたんだ」
「お前こそどうしたんだよ。俺はただの仲間だろ。チームメイトだろ。
 何とも思ってない奴にキスされて、どうして平然としてるんだよ」

源田の目が丸く見開かれる。それから、ちょっと悲しげな顔をして目を逸らした。
どうも、今初めて俺の涙を直視してしまったらしかった。

「……羨ましかった」

向こうが何も言えなくなったのをいいことに、俺はもう一度源田に触れた。
繋がれた手を引き寄せて、その手の甲に唇を寄せた。

「俺の方がずっと前からお前のことを見てたのに、お前が離れていったから」
「は」
「なぁ源田、何で追い掛けてきたんだよ。お前は成神のなんだろ、そんなんじゃ俺――」

ほんの少しだけ背伸びする。
俺の唇は源田の頬に触れた。フェイスペイントを掠めて、柔らかな頬に。
そして俺は耳元で囁いた。

「一生諦めてやらないぞ」

もともとそんなつもりは微塵もなかったけれど。


******


「今頃あいつら、どうしてるだろうな」
「サッカーをしているさ」
「それもそうか」

あの人が。鬼道が自信に満ちた笑みを浮かべながら、滴る汗を拭っている。
俺もまたスポーツドリンクを一気飲みしながら、ふっと息をついた。

「明日の試合」
「ああ」
「何としても勝とう、な」
「当たり前だろう」

当然、とばかりの顔をする鬼道に向けて、俺は小さく頷いた。

「惚れ直して貰わないといけないからな」
「は?」

もう、羨ましいって思いながら指をくわえているだけなのは嫌なんだ。
一人決意する俺に、鬼道は気の抜けた声を上げた。



inserted by FC2 system