悪い。
そう言って源田の胸を押し返したのは、もうずっとずっと前のことのようだった。
あの時の俺はただただ風に靡く赤いマントを追い掛けていた。
――そうだ、俺は確かにあの人だけを見ていた。
俺の世界にある色は鮮やかな真紅だけ。あの人以外は何もなかった。
知っている。
源田はそう言っていた。それでもいいと言って笑った。
でも俺はそんなの許せなかった。
きっとこいつは俺の気持ちがついてくるまではずっと待ってくれる。
俺の心が少しずつあの人から離れて、甘い痛みも胸の高鳴りもなくなって、
あんなこともあったと笑い合える日が来るまで、俺の傍にいてくれるはずだった。
だけどそれはただの甘えだ。逃げだ。
俺にとっての源田は確かに大切な存在だった――チームメイトとして。
大事な仲間だからこそ、甘えたくはなかった。
ごめん。
それだけ言って、離れた。
そうか。
返事はたった一言で、その時もあいつは笑っていた。
それは確か夏のある日、今から数えたってそれほど遠くはない頃のこと。
あの人がまだ俺たちの司令塔としてピッチを駆け抜けていた時の話だ。
「選考会、選ばれなかった」
俺の話を、源田は黙って聞いてくれていた。
こいつはあの時と変わらない笑顔を浮かべたまま、今も俺の隣に居てくれる。
あの日からかなり時間は流れ、中には思い出したくもないようなこともあったが、
何だかんだで今もこいつと俺の間にある絆は変わらない。
大切なチームメイトで、仲間。それだけは決して揺るがなかった。
寧ろ絆はより深く強い物へと昇華されたようにも思える。
あらゆる障害を乗り越えた俺たちの中に根付いたそれは、他の誰にも壊せないほどに強固だ。
「鬼道はやっぱり凄かった。勿論代表に選ばれたし、プレーも一つ一つが輝いていて」
「流石だな」
「ああ!」
俺は自分の知りうるありとあらゆる褒め言葉を用いてあの人を褒め称えた。
目に焼き付けた全てを、衝動に任せてとにかく口に出していた。
「……本当に、好きなんだな」
「え」
源田の表情は変わらない。包み込むような暖かい笑顔。ずっとそのままだ。
俺はなんだか背筋が冷えたような心地になった。
もしかして俺は今凄く残酷な事をしてしまったのではないだろうか。
そう思って、ぎゅっと自分の手を握りしめた。
「悪い」
「何で謝るんだ?」
「いや……その」
源田は笑う。柔らかくて暖かい、あの時と同じような優しい笑顔を浮かべる。
酷く居心地が悪かった。話題を変えよう。そう思った。
何か共通の話題はなかっただろうか。ぐるぐると迷走をする頭を必死で働かせる。
やがて俺が弾き出したのは、正気の沙汰とは思えない、思い出したくもない何かだった。
「そ、そういえば、不動も居たんだ。選考会」
俺が俺自身の意志であの人を否定した、封じ込めたくなるような記憶。
できることなら鍵をかけて奥底に閉まっておきたかったその名前を、不意に口に出した。
――あの時の記憶は、きっと源田にとってもあまりいいものではないだろう。
これじゃあ空気はますます凍るばかりじゃないか。俺は何を考えいるんだ。
自分の愚かさに頭を抱えそうになった。けれど、訪れた現実は違った。
「不動が?」
源田が、笑う。
それは俺に向けてくれたあの時の笑顔ではなかった。もっと別な何かだった。
全てを包み込むような暖かいものじゃなくて、もっとずっと甘く柔らかな、優しい顔。
ぱっちりと開かれた目には、淡い色をした何かが宿っている。
俺は理解できなかった。理解したくなかった。
何故源田がそんな甘やかな微笑みを、一瞬で色付いた熱っぽい瞳の光を、
よりによってあんな奴の名を呼びながら浮かべるのか、理由がまるで何も解らなかった。
「……ああ」
「不動は、どうだった」
さっきよりも強い語調で、目もずっと生き生きと輝かせながら、源田が俺を覗き込む。
源田の時間は動いている。けれど俺の時間は止まってしまった。
何故かは解らないが、息ができなくなりそうなぐらいに胸が苦しい。
「不動、は――」
そこから先、何を話したのかは全く覚えていない。
俺の記憶に刻み込まれたのは、幸せそうな笑顔と切なげにあの男の名を呼ぶ声だけ。
「がっ……は、う、うぇ、え」
源田と別れて俺が最初にしたことと言えば、便器に昼食をぶちまけたくらいだ。
胃から込み上げた塊の何割かは消化されていたが、大半はぐちゃぐちゃになっていた。
俺と同じだった。
解りやすい見せ掛けの張りぼてに騙されて、虚構の海の中に沈んで見えなくなっていた。
きっと源田もそうだった。
ずっとずっと昔から、俺たちは真実に気付いてなかったんだ。
憧憬を思慕と取り違えて、同情を恋慕と錯覚した。そうに違いなかった。
だって源田が俺に向ける微笑みも思いも、あの時からまるで変わりはなく――
「うう、うあ、がっ……ぐうううう」
もう一度便器の中に全てを吐き出す。止まらない。もう吐くものなんて残っていないのに。
逆流した胃液が喉を灼いている。口の中が酷く酸っぱかった。
「……嫌だ」
吐き気が収まった。
次に訪れたのは寒気だ。体の芯から、寧ろ心から凍り付いていく。
「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だっ、嫌……嫌だああああっ」
そこが便所であることも忘れて俺は床にへたり込んだ。自分で自分を抱き締めて慟哭した。
嫌だった。
源田が俺に言ってくれた「好きだ」という言葉が、既に有効でないことが。
あの時源田が俺に抱いていた感情が、ただの錯覚でしかなかったことが。
今源田が見ている相手が隣に居る俺じゃなかったことが、嫌で嫌で仕方なかった。
その相手がよりによってあの男であるという事実が、その嫌悪に拍車をかける。
……いや、相手があの男じゃなくて、例えば辺見や咲山や成神だったとしても、
男はきっとその関係も何もかもを許せないに違いない。
「嫌……嫌なんだ。源田の隣は、俺じゃなきゃ……っ」
世界の色が変わる。
追い掛けていた赤いマントは、どうやらただのカーテンだったらしい。
それを剥ぎ取って慌てて窓を開け放ったら、そこにはあの日の――いや。
あれよりも前の源田も、それからの源田も、俺の知りうる全ての源田が居た。
俺の視界を覆っていた真紅の先には、いつだって俺の傍に居たあいつが立っていた。
でも、あいつが見てるのは隣に居る俺じゃなくて、ぽっと出の
「そんなの、嫌だああッ!!」
ぜぇぜぇと肩で息をする。髪を掻き毟る。それでも寒気が止まらなかった。
嫌。そんなのは絶対に嫌。
あいつの隣に居るのは俺だけ。佐久間次郎だけ。そのはずだった。
いや、そうじゃなくちゃいけない。他の何かではいけないのだ。
だけど、もう間に合わない。それは許されない。
本当の気持ちがどこに向かっているのか、あいつが気付いていないはずがなかった。
だって俺は見てしまった。
何でもないような顔をしながら、一生懸命平然を装いながら、あの男の名前を呼ぶ源田。
その姿を誰よりも近く――そう、隣で。真正面から見てしまったから。
「……寒い」
自分の体に回していた手の力を、より強く強くする。ぎゅっと抱き締める。
そして目を閉じて、この腕があいつのだって置き換えてみた。
あの人のことなんて、もう意識のどこにもない。
思い描くのは、優しくて暖かくて自分よりも大きな源田の腕の中のこと。
ただ一度だけあった抱擁の記憶を掘り起こして、夢想する。
「寒い、寒いんだ。なぁ源田」
あの時に戻って、あの背中に腕を回すことができたら。
本当か、って。俺でいいのかって、縋りつくことができたら、どんなに幸せだろう。
きっとそうなれば、源田は馬鹿みたいに嬉しそうな顔をして、
無茶苦茶な力で俺を抱き締めてくれるに違いなかった。いっそ壊れるまで。
――今でも俺が好きかって聞いたら、源田は何て答えるんだろうか。
大事な仲間だって、チームメイトだって、かつての俺みたいなことを言うんだろうか。
そんな気がした。俺にとって都合のいい言葉は出てこないだろうと思った。
あの時の俺がそうだったように、きっと源田は俺に甘えてくれない。
俺の方に逃げてきてくれるはずがないんだ。
「……寒い、よ。源田」
震えは収まらない。
吐き気と寒気と絶望しかない現実と対照的で、妄想の中の源田は優しかった。